日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
私が「学校」を愛する理由 その2
2015年01月01日 (木) | 編集 |
 「学校」を好きな理由はもう一つあって。

 現代日本の学校は、
 どんな子どもたちにも、ある一定の総合的な学習経験を平等に与えられる場所だから。 

 公立小学校さえあれば、子どもの貧富の差にかかわらず、読み書きはもちろん、スポーツ、英会話、コンピューター、楽器演奏、習字、絵画や工作の制作、演劇体験など、一通りの体験が用意されている。

 だから、貧しいから、親が忙しいから、などという個々の事情の影響で、学びの体験が欠落することはない。
最低限の経験をすることができるし、やる気さえあれば、学校リソースを使ってそれ以上の学びを得ることだって可能だ。

 先生という人種は、ほぼ一人残らず、子どもが「学びたい」と目を輝かせてお願いすれば、自分の休日や休憩なんて返上して、その子のために奔走する習性を持っているのだから(笑)、授業以上の学びを得ようと思えばいくらだって得られる。

 こんな贅沢なことはなかなかない。

 時々、子どもは恵まれすぎているんじゃないかと思うくらい。
 ホントは、一番働いている成年層に、学校くらいのリソースを用意してあげてもいいんじゃないかと思う。
 だって都会では、一般向け公共リソースって絶対数が十分じゃないから、いつも抽選だの有料だので、それを使えるようにするだけで苦労が付きまとう。
 大人が、平日の夜とかに遅くまで使えるリソースが、子どもにとっての「学校」ぐらいふんだんにあってもいいよなあ。
 一番税金払っているのに。

 だから私は学校の子どもたちにいつも言うんだ。
「みんなのためにいろいろなものが、大人たちの払った税金で用意されているのはね、みんなに幸せになってほしいから、みんなに世のため人のために働く立派な人になってほしいからなんだからね!」って。

 話がずれました。

 とにかく、子どもに平等にたくさんの経験をさせてあげられる場所だから、「学校」っていいところだなあと思うんだ。

 杓子定規に言えば、これはあくまでも日本国籍がある子ども向けのサービスなんだけれど、実際には、外国人でも、無戸籍でも、子どもであればだれでも小学校に入学できる。
(無戸籍で、学校に行っていない例とがが稀にあるが、それは、無戸籍だと入学できないのではなく、存在が把握できないから入学案内を送れずに、漏れてしまうということらしい。)

 実際、今はだいたいクラスに一人は外国人の子がいるもんなあ。
(中国人、フィリピン人の子が多いけれど、ほかの国の子も学校に一人はいる感覚だ。)

 でも、どの国の子だとか関係なく、みーんなに、ホント、平等にしてあげるもんなあ。

 でも、
 そういえば。
 そのたくさんのリソースを使うことを選ばない、あるいは選べないという子どもたちもいるんだよねえ。不登校で…。

 せつないね。

 学校さえなければ、不適応なんて問題もないのにね。 
 地域の誰もが通う場所としての「学校」は、子どもにとっては絶対的な存在で。
 そして、絶対的なものとして存在してしまうと、それに合う合わないっていう悩みも生まれてしまう。

 そうすると、まわりまわって、どんなに良いものであっても、ないほうがいいのかなという発想に戻ってきてしまう。 

 やっぱり「学校」がなくなっちゃったほうが、子どもが自由になってよいのだろうか…。




 悩む。



 
 
 
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