2014年08月31日 (日) | 編集 |
いつどこで目にしたか耳にしたか覚えていないのだけれど。
ロシアの教育関係者が日本の国立大付属小学校について、こうコメントしたそうだ。
「なぜ、国立なのに(国の税金を使っているのに)、教育困難児の教育をしないのか」
なるほどねえ。
と思ったのでこのコメントだけよく覚えている。
(ここから少々乱暴な、イメージに論拠した論理展開になるので、あまり目くじら立てずに聞いてください。)
日本の国立大付属小は、賢い子、品行方正な子を集めて、最高の教育をしようと試みているところ。
いわゆるエリート養成を目指している。
それで公立小の先生方が、そういう、筑波とかの教育実践を「すばらしい」と言って真似しようとしてるんだけど。
批判を恐れず言ってしまうと、
公立小と付属小じゃ、子どもが違うじゃん。
っていつも思ってた。
公立小には、地域によって多少はあるけど、教科教育より前に、学校内外の生活の基盤とか、学習に向かう意志を喚起することとか、あるいは特別支援とか、なんかいろいろ必要な子どもがいっぱいいるわけよ。たとえそれらが必要なくても、基礎基本を丁寧に教えてもなかなか呑み込めない子どもとか…。
付属小で実践している教育実践が素晴らしいというのなら、放っておいてもお利口さんのエリートの卵ではなくて、 ロシアの人の言うように、公立小でお手上げの学習困難児だけを集めて、その素晴らしい指導の力量で、彼らに学ぶ喜びを味あわせてあげるほうが、税金の使い道として正しいのではないかしら。
きっとエリートになれる子たちは、公立小でも充分なパフォーマンスができるよ。自分の力で自分の道を切り拓いていく。わざわざ集めなくても大丈夫だよ。国のお金を使うなら、特に教えるのが上手な人たちがいるのなら、ごくごく簡単な算数でも首をかしげてすがるような目をする、あの子達に教えてほしい。
もしも、そんな子どもたちを相手にしても、付属校の実践が通用するのなら、私はその時はじめて、それを学びたいと思うだろう。 正直に言えば、今の私は、前述の「公立小と付属小じゃ、子どもが違うじゃん。」というモヤモヤがあって素直になれません。
そう考えると、本体の大学に通う先生の卵達の教育実習の場としても、
今の状況より、教育困難児ばかり集めた場であるほうが、有意義なんじゃないですかね…。
さて。
国立付属小にエリートを集めることに対して、わたしにはもうひとつ、別のモヤモヤがある。
私は、エリートになれる子たちにはさ、弱者とともに育ってもらいたいんだ。
今のシステムだと、付属小には「自分の子どもにより良い教育を受けさせたい」というメンタリティの親の子が付属小に集まる。そういう考えがなければ「受験」を選ばないで地域の小学校へ行くはずだからね。その意思が軽いか重いかの濃淡はあれ、その気持ちが存在しない人は、あるいは日々の生活に追われてそんなこと考える余裕のない人は、受験しないので、ハナからそこにはいない。
それは突き詰めれば、ほんのりと利己的なにおいがする。
非難しているのではない。
私も親の一人として、「お受験」の魅力は痛いほどわかる。
だけど結果として、付属小には、自分が得することに無頓着な、出し抜かれても損をしても気づかないような、競い合った時、思わず譲ってしまうような人のいいキャラクターの人間は、親に子どもにも、存在しにくいのではないだろうか、と思うのだ。
翻って、そういう人のいいキャラクターは、社会的弱者になりがちであるという現実もある。
いずれにしても、現代社会でうまく渡っていく裁量や才覚や意志力に欠けるとき、どうしても社会的弱者になってしまうわけで。
だとしたら、そもそも裁量や才覚や意志力に欠ける社会的弱者の自助努力には限界があって、弱者の助け合いだけでは弱者は救われないし、世の中は変わらない、と私は思っている。
彼らの生活が向上し、最大限の不特定多数が幸福な社会になるためには、現代社会でうまくやっていく裁量や才覚や意志力があり、なおかつ人々を導く力のあるエリート達が、その力を、社会的弱者のために使うということが必要だと、私は考えている。そして、たぶん、それが本来的な意味の「エリート」なんじゃないかって思ってる。
そして、
エリートがその力を社会全体、特に弱者のために使おうという強い意志を持つためには、ほんのり利己的なにおいのするエリートたちだけで固まるのではなく、身近にいろんな子ども、いろんな生活を感じながら育つほうが効果的なんじゃないかと思うのだ。
とまあ、つらつら書き連ねましたが。
そもそも。
だいたい、あんなものとそれにまつわる超優秀イメージがあるから、公立小周辺の大人も子どもも、なんとなくヒエラルキーや劣等感を感じてしまうし、逆に、行った子は一生その優越感に依存してしまうかもしれないし。
なんなんだろうねえ、このシステム。なくてもいいんじゃない???もしかして。
ロシアの教育関係者が日本の国立大付属小学校について、こうコメントしたそうだ。
「なぜ、国立なのに(国の税金を使っているのに)、教育困難児の教育をしないのか」
なるほどねえ。
と思ったのでこのコメントだけよく覚えている。
(ここから少々乱暴な、イメージに論拠した論理展開になるので、あまり目くじら立てずに聞いてください。)
日本の国立大付属小は、賢い子、品行方正な子を集めて、最高の教育をしようと試みているところ。
いわゆるエリート養成を目指している。
それで公立小の先生方が、そういう、筑波とかの教育実践を「すばらしい」と言って真似しようとしてるんだけど。
批判を恐れず言ってしまうと、
公立小と付属小じゃ、子どもが違うじゃん。
っていつも思ってた。
公立小には、地域によって多少はあるけど、教科教育より前に、学校内外の生活の基盤とか、学習に向かう意志を喚起することとか、あるいは特別支援とか、なんかいろいろ必要な子どもがいっぱいいるわけよ。たとえそれらが必要なくても、基礎基本を丁寧に教えてもなかなか呑み込めない子どもとか…。
付属小で実践している教育実践が素晴らしいというのなら、放っておいてもお利口さんのエリートの卵ではなくて、 ロシアの人の言うように、公立小でお手上げの学習困難児だけを集めて、その素晴らしい指導の力量で、彼らに学ぶ喜びを味あわせてあげるほうが、税金の使い道として正しいのではないかしら。
きっとエリートになれる子たちは、公立小でも充分なパフォーマンスができるよ。自分の力で自分の道を切り拓いていく。わざわざ集めなくても大丈夫だよ。国のお金を使うなら、特に教えるのが上手な人たちがいるのなら、ごくごく簡単な算数でも首をかしげてすがるような目をする、あの子達に教えてほしい。
もしも、そんな子どもたちを相手にしても、付属校の実践が通用するのなら、私はその時はじめて、それを学びたいと思うだろう。 正直に言えば、今の私は、前述の「公立小と付属小じゃ、子どもが違うじゃん。」というモヤモヤがあって素直になれません。
そう考えると、本体の大学に通う先生の卵達の教育実習の場としても、
今の状況より、教育困難児ばかり集めた場であるほうが、有意義なんじゃないですかね…。
さて。
国立付属小にエリートを集めることに対して、わたしにはもうひとつ、別のモヤモヤがある。
私は、エリートになれる子たちにはさ、弱者とともに育ってもらいたいんだ。
今のシステムだと、付属小には「自分の子どもにより良い教育を受けさせたい」というメンタリティの親の子が付属小に集まる。そういう考えがなければ「受験」を選ばないで地域の小学校へ行くはずだからね。その意思が軽いか重いかの濃淡はあれ、その気持ちが存在しない人は、あるいは日々の生活に追われてそんなこと考える余裕のない人は、受験しないので、ハナからそこにはいない。
それは突き詰めれば、ほんのりと利己的なにおいがする。
非難しているのではない。
私も親の一人として、「お受験」の魅力は痛いほどわかる。
だけど結果として、付属小には、自分が得することに無頓着な、出し抜かれても損をしても気づかないような、競い合った時、思わず譲ってしまうような人のいいキャラクターの人間は、親に子どもにも、存在しにくいのではないだろうか、と思うのだ。
翻って、そういう人のいいキャラクターは、社会的弱者になりがちであるという現実もある。
いずれにしても、現代社会でうまく渡っていく裁量や才覚や意志力に欠けるとき、どうしても社会的弱者になってしまうわけで。
だとしたら、そもそも裁量や才覚や意志力に欠ける社会的弱者の自助努力には限界があって、弱者の助け合いだけでは弱者は救われないし、世の中は変わらない、と私は思っている。
彼らの生活が向上し、最大限の不特定多数が幸福な社会になるためには、現代社会でうまくやっていく裁量や才覚や意志力があり、なおかつ人々を導く力のあるエリート達が、その力を、社会的弱者のために使うということが必要だと、私は考えている。そして、たぶん、それが本来的な意味の「エリート」なんじゃないかって思ってる。
そして、
エリートがその力を社会全体、特に弱者のために使おうという強い意志を持つためには、ほんのり利己的なにおいのするエリートたちだけで固まるのではなく、身近にいろんな子ども、いろんな生活を感じながら育つほうが効果的なんじゃないかと思うのだ。
とまあ、つらつら書き連ねましたが。
そもそも。
だいたい、あんなものとそれにまつわる超優秀イメージがあるから、公立小周辺の大人も子どもも、なんとなくヒエラルキーや劣等感を感じてしまうし、逆に、行った子は一生その優越感に依存してしまうかもしれないし。
なんなんだろうねえ、このシステム。なくてもいいんじゃない???もしかして。
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