2014年08月28日 (木) | 編集 |
常々思っていることなのだけれど。
「学校」というリソースは、
教師たちがそういう意識で仕事をすれば、
さまざまなネガティブな結果を未然に予防する、たいせつな砦だ。
特に公立小・中学校。
そこは、私立や国立に行く少数者を除いて、地域の子どもたちが残らず集まるところ。
円満な家庭の子がマジョリティではあるが、ネグレクト、DV、家庭不和、貧困、そんなハイリスク家庭の子どもも、
必ず「学校」には来る。
(無戸籍には学校さえ術はないけれど)
例えば医療や社会教育や、もしかしたら福祉も、
その当事者である家族メンバーの誰かが「行こう」と思わなければ、
ハイリスク家庭と出会うことはできない。
けれど、
学校だけは、6歳になった子どもさえいれば、
あらゆる子育て家族が集まる。
だから、ここにいれば、地域のあらゆる家族に出会うことができるのだ。
ここで、家族の中に潜むリスクの多寡を見抜いて、
ハイリスク家庭に対して未然に予防的対策を十分にとることができれば、
世の不幸は激減するのではないか、
家族を幸せにする手助けができるのではないか、
と、いつも夢想する。
しかし残念なことに、
教師は、児童の教科指導、生活指導のプロフェッショナル。
家族支援者ではない。
関心事は、子どもの健やかな成長であって、家族を立て直すことではない。
だから当然、一般的に家族支援の視点は持たないし、持っていたとしてもそのスキルはない。
スクールカウンセラーがいる?
残念ながら、中途半端だ。
週一回・9時-5時の就業時間で、何校もの掛け持ちで、
支援者たちが日々格闘する家族支援と同じアウトプットが得られるわけがない。
そもそも、厳密に言えば、
「カウンセラー」は心理的危機に陥った後の対処者であって、
予防的支援の専門家ではないし。
では、他の家族支援リソースに繋げればいいのでは、と思うかもしれないが、
学校と家族支援を結ぶ絆も、まだまだ、たいてい糸のように細い。
そして、なおも悲しいことに、
糸が繋いだ先の家族支援リソースが、十分に機能する保証は全くない。
この国の家族支援はまだまだ、乏しすぎるくらい乏しい。
あるいは、地域格差は想像以上に大きいのだ。
結局、
そんな中で、
個々の教師たちは、
それぞれが職業的カンと自助努力によって、
それぞれのやり方で、
保護者と対応している。
ある人は支援的に、
ある人は指導的に、
ある人は寄り添うように、
ある人は批判的に……。
わたしは、と言えば。
教師であると同時に、
家族支援を知っているというのは、
他にはないリソースだと自負しつつも
こんな大それた社会批判は、
ここに書くのがせいぜいで、
やっているのは些末なこと。
つまり、
こんな理論は、実社会や職場では誰にも話さず、
せめて私のクラスの、
いや、私の学年の、あるいは私の学校の子どものハイリスク家族にだけは、
なんとか家族支援的サポートが届いてほしい
と念じながら、ささやかな抵抗を試みるだけ。
「抵抗」というのは、
教師の口から
「こんな親ごさんじゃ、こまっちゃう」
なんてため息が漏れたときに、
「親御さんは……かもしれませんよ」
「こういう考え方もありますよ」
と、控えめにそーっと、家族支援理論のかけらをさし出すこと。
とはいっても、
「教師」の本来的仕事に忙殺されて、
いろんな意味で、自分のクラスのことを考えるのが精いっぱいで、
それ以外になると、
「こうしたらいいのに」「ああしたらいいのに」
なんて思いだけを胸に、
他の先生のコミュニケーションをとる暇さえなく、
やるせない日々を送ることが多いのだけれど。
…明日からもうちょっと頑張ろう。
「学校」というリソースは、
教師たちがそういう意識で仕事をすれば、
さまざまなネガティブな結果を未然に予防する、たいせつな砦だ。
特に公立小・中学校。
そこは、私立や国立に行く少数者を除いて、地域の子どもたちが残らず集まるところ。
円満な家庭の子がマジョリティではあるが、ネグレクト、DV、家庭不和、貧困、そんなハイリスク家庭の子どもも、
必ず「学校」には来る。
(無戸籍には学校さえ術はないけれど)
例えば医療や社会教育や、もしかしたら福祉も、
その当事者である家族メンバーの誰かが「行こう」と思わなければ、
ハイリスク家庭と出会うことはできない。
けれど、
学校だけは、6歳になった子どもさえいれば、
あらゆる子育て家族が集まる。
だから、ここにいれば、地域のあらゆる家族に出会うことができるのだ。
ここで、家族の中に潜むリスクの多寡を見抜いて、
ハイリスク家庭に対して未然に予防的対策を十分にとることができれば、
世の不幸は激減するのではないか、
家族を幸せにする手助けができるのではないか、
と、いつも夢想する。
しかし残念なことに、
教師は、児童の教科指導、生活指導のプロフェッショナル。
家族支援者ではない。
関心事は、子どもの健やかな成長であって、家族を立て直すことではない。
だから当然、一般的に家族支援の視点は持たないし、持っていたとしてもそのスキルはない。
スクールカウンセラーがいる?
残念ながら、中途半端だ。
週一回・9時-5時の就業時間で、何校もの掛け持ちで、
支援者たちが日々格闘する家族支援と同じアウトプットが得られるわけがない。
そもそも、厳密に言えば、
「カウンセラー」は心理的危機に陥った後の対処者であって、
予防的支援の専門家ではないし。
では、他の家族支援リソースに繋げればいいのでは、と思うかもしれないが、
学校と家族支援を結ぶ絆も、まだまだ、たいてい糸のように細い。
そして、なおも悲しいことに、
糸が繋いだ先の家族支援リソースが、十分に機能する保証は全くない。
この国の家族支援はまだまだ、乏しすぎるくらい乏しい。
あるいは、地域格差は想像以上に大きいのだ。
結局、
そんな中で、
個々の教師たちは、
それぞれが職業的カンと自助努力によって、
それぞれのやり方で、
保護者と対応している。
ある人は支援的に、
ある人は指導的に、
ある人は寄り添うように、
ある人は批判的に……。
わたしは、と言えば。
教師であると同時に、
家族支援を知っているというのは、
他にはないリソースだと自負しつつも
こんな大それた社会批判は、
ここに書くのがせいぜいで、
やっているのは些末なこと。
つまり、
こんな理論は、実社会や職場では誰にも話さず、
せめて私のクラスの、
いや、私の学年の、あるいは私の学校の子どものハイリスク家族にだけは、
なんとか家族支援的サポートが届いてほしい
と念じながら、ささやかな抵抗を試みるだけ。
「抵抗」というのは、
教師の口から
「こんな親ごさんじゃ、こまっちゃう」
なんてため息が漏れたときに、
「親御さんは……かもしれませんよ」
「こういう考え方もありますよ」
と、控えめにそーっと、家族支援理論のかけらをさし出すこと。
とはいっても、
「教師」の本来的仕事に忙殺されて、
いろんな意味で、自分のクラスのことを考えるのが精いっぱいで、
それ以外になると、
「こうしたらいいのに」「ああしたらいいのに」
なんて思いだけを胸に、
他の先生のコミュニケーションをとる暇さえなく、
やるせない日々を送ることが多いのだけれど。
…明日からもうちょっと頑張ろう。
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