日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
非言語的表現の行方
2014年06月20日 (金) | 編集 |
 今日は校内授業研究会の日。今年は国語。

 若手の先生が物語作品の授業をして、学校中の先生がその授業を検討し、招いた大学の先生が指導講評する。

   ねらい
        授業の組み立て
                         範読     音読指導
  物語の読み取り
                             子どもの表現      登場人物の気持ちを想像    
              子どもの実態

  etc  etc  

 活発に議論が交わされ、
  たくさんの学校用語が、私の頭の上を飛び交い、踊り狂う。
 そして、
 講師の先生からは、理論を駆使した児童文学分析と授業への助言のシャワー。

 そんな中、
 私は、先生方と肩を並べて、その会議にあたかも参加しているようなふりをしつつ、
 実は、頭の中だけは一人ぼっちで、こんなことを考えていた。

 そもそも文学の深い感動なんて、言語化できないのではなかろうか。 

 少なくとも私は、素晴らしい作品に出会った時、 
 せいぜい
「いいんだよねえ、わかるでしょ?」
 くらいしか表現できない。
 この感動を表現するのに、安易に言葉というツールを使いたくないと思ってしまうのだ。
 素晴らしい作品に”くらった”ときの、心の奥に突き刺さる、あるいはじわじわと広がるあの感じは、どんな言葉を使ったとしても、言語化した時点で陳腐になってしまうような気がするのだ。

 だからいつも「いいよねえ、わかるでしょ」なんて、逆になんだかよくわからない表現になってしまう。

 文学自身も、文学は言語による表現だけれど、書き手は、読み手には非言語的なものを非言語的な塊のまま持って行ってほしいと、そういうふうに味わってほしいと思っているに違いない、と私は信じている。

 しかし。

 そういう考えの延長線上には、物語を「学習」することの否定しかない。
 物語を非言語的感覚だけで受け止めるべきといってしまったら、
 この研究会そのものがナンセンス化してしまう。

 物語の授業では、物語で感じたこと思ったこと、登場人物との同化体験のすべてを、言語化しなければ始まらない。
 研究会では、言語化され、記述された子どもの反応しか検討することはできない。

そこでは、

 ワークシートに先生や講師が喜ぶような言語表現で思いを語れる子、ユニークな呟きを披露した子は話題にあげられるが、

 目には見えない、言語化できない、深く心揺さぶられる思いを抱えたまま、鉛筆が止まる子は、

誰にも気づかれないまま。

彼(彼女)は、

 たぶん学校では評価されない。

 物語は、ここ(学校)では分析され吟味され、読み取りや感動は、必ず言語化されなければならない。

 だけどときどきさあ、
 この学校的活動の中で、
 非言語表現を超える言語表現を魅せてくれることがあるんだよ、子どもって。
 あれはもうほんとうに、たまんないっす。


 



 


 
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