日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
「すごい」があるから不幸になる
2017年08月10日 (木) | 編集 |
 弟が兄に、誕生日プレゼントを買ってきた。

 小説好きの彼のために、40分かけて一冊の文庫本を選んだという。

「本屋に売っている本でさ、最後まで読みたいなあって感じる小説が少なくてびっくりしたわ」
 そう語る彼が最終的に買ってきたのは、インターネットで公開された後、文庫化されたという「三日間の幸福」(著・三秋縋)という小説。

 しかし、次の朝、せっかくプレゼントされたその本は、兄によって食卓に放置されていた。
 一緒に朝食をとった時、弟はそれをちらっと見たが、何もコメントしなかった。
「なんだよお兄ちゃん、せっかくプレゼントしたのに」
 と心の中で思ったが口に出さなかった。わけではない。

 親だから、彼のことはよくわかる。
 彼は、自分が40分かけて選んだプレゼントが放置されていても、全く、一切、気にもとめていないのである。
 そういうところが大物だなあといつも思う。
 さすが、
「勉強も運動も出来ないお前の長所はいったいなんだ」
 と私に問われ、
「うーん……まあ、優しさ(人への許容範囲というような意味で使っていた)では、負ける気がしない」
 と答えを絞り出しただけの男だ。

 そういうわけで、私の目の前に転がる文庫本。
「40分かけて選び抜かれた小説ってどんなものなんだろう」と、私はなんとなく「三日間の幸福」を手にとって、パラパラと読み始めた。

 そして気がついたら、一気に読み終わってしまっていた。

 弟よ、君の見立ては正しかったよ。
 面白かった。
 久しぶりに「食べ終わった」と思った。
(私は面白い本を読み終わった時、読み終わったというより食べ終わったと感じる。)

 そして、刺激されて、私も前から思っていたことを記録しておこうと、こうしてコンピューターに向かっている。

 話の概要は書かない。
 そんな野暮なことはできない。

 小説を知りたければ、ちゃんと読まなければいけない。
 あらすじで小説を語ることなんてできない。
(余談ですが、だからほんとは、教員として国語の授業で小説を扱うのもとても苦痛。小説は、ただまとまりとしてボンと人の前に出されるべきだと思うから。小説を授業することは、私には作品を切り刻んでいる感じがするんです。)

 話を戻そう。

 小説の概要は書かないけれど、私が小説によって思い出した、普段から考えていたことを書こうと思う。
 


 昔から、なんで欧米系の外国人は、自分の人生を価値あるものと思っていて、自分は自分として存在していることに充分満足している、というような雰囲気を醸し出しているんだろうと思っていた。

 そしたら、こないだどこかで面白い調査結果を知ってなるほどと思った。
 欧米では、メディアの情報に対する依存が1〜2割程度で、日本はメディアの情報を鵜呑みにする傾向が7〜8割にも及ぶと言う。
 つまり、日本人にとって、「メディアで報じられること」の大きさが、欧米人よりとてつもなく大きいのだ。

 そうなると、日本人は、欧米人に比べて、メディアで「こんな人がすごい」「こんな人もいる」と連日報じられることを大きく受け止めるので、「報じられない自分」はあまり価値がないと思わされてしまうんじゃないだろうか。

 だから、なんとなく自分の人生を愛して生きている欧米人に比べて、日本人は、自分の人生なんて大したことないと思って暮らしているんじゃないだろうか。そう理解したのだ。

 いや、一般論で言うのはやめよう。
 もう確実に、私自身がそうなんです。

 メディアで、いろんな分野のいろんな素晴らしい活躍をしている人を見るたび、
 私って、なんてダメなんだろうって思う。

 それで不幸になる。

 だけど、冷静になると、なんでいつも私は自分が「まだダメだ」「まだ足りない」とばかり思うんだろう、と思う。
 愛する家族も、そこそこのお金も、やりがいある仕事も、素晴らしい仲間も、全部あるのに、
 著名になるだけの何事かを成していない自分は、ダメな人間だと思っている。
 どんだけ欲深いんだ、とますます自分が嫌になる。

 全てはメディアと私の中の日本人的メディア感度のせいだ。

 ああもう、誰かを「すごい」って言ったり、誰かを「素晴らしい」って言ったりするのをやめてくれメディア。

 そしたら、私だけじゃなく、日本人の多くは確実に幸せになるんじゃないか?
 へたしたら、鬱だって半減するかもしれない。

 ささやかな人生を、胸を張って生きられるようにしてくれメディア。

 まてまて。
 メディアのせいだけにするな。
 破れ鍋に綴じ蓋。
 それを大いに受け入れる日本人の習性も、私自身の感じ方も治っていかなくちゃ。
 
 実際、若い世代は私よりずっと地に足つけて、「すごい」報道に惑わされずに、ちゃんと地道に、けれど自信を持って生きている(気がする)。

「すごい」人を否定するわけじゃない。
「すごい」人はもちろんすごい。心から尊敬する。眩しいと思う。

 だけどそれは運命的な要素も多い、いろいろな条件が重なった結果に過ぎない。
 ほんの少しの違いで、あるいは、いろいろな条件に恵まれず、あるいは、あえて「すごく」なることを望まず、「すごくない」人生を送る人の方がきっと圧倒的に多い。

 そして恐ろしいことに、「すごい」人だから幸福が約束されているわけではなく、むしろ、「すごく」なってしまったことで逆に不幸になってしまう、というケースもある。
 また、「すごい」人たちの多くが、「すごい」状態でいることと幸福でいることに相関性はないと、くりかえしくりかえし証言してくれている。

 それなのに、私たちは(私は?)「すごい」ことは幸福に直結していて「すごくない」ことは不幸に繋がるんじゃないかと恐れている。

 卑近な例を挙げれば、もっとわかってもらえるだろうか。

 たとえば、
 小・中学生が成績がすごく良くて、お受験で有名校に進学したら「すごい」。
 勉強も運動も出来が悪くて地元で進学すれば「すごくない」。

 親は、もちろん前者の方が気分がいい。

 でも、なんで?

 親の願いはなにより子どもの幸福のはずだ。 
 そして、前述した通り、成功した多くの大人たちが「すごい」ことと幸福に相関関係はないと伝えているのに。

 誤解しないでほしいのは「すごい」を否定しているのではないということ。
「すごい」はあっていい。
 でも、それ以上でもそれ以下でもない、ただそれとして存在すればいいんじゃないのかな。 

「すごい」が必要以上の価値を持たなければ、「すごくない」と同等の価値であれば、
 あらゆることが、あらゆる人が、ハッピーになれる気がしてる。

 大人も、子どもも。