2016年12月28日 (水) | 編集 |
文部科学省の方針が明らかになるにつれて、教育業界は
「アクティブラーニング」とはなにか
というテーマが注目の的。
いろいろな説明があります。
「子どもの頭の中がアクティブになっている状態のこと」
「一斉指導でも、子どもが主体的に学んでいればよい」
「深い学びこそアクティブラーニングの要」
とか。とか。
ちょっとまってくれーーーい。
今巻き起こっている議論を、私なりに整理したい。
まず
アクティブラーニングの定義が二つ、混同されていることを整理。
アクティブラーニングと義務教育業界の人が呼んでいるのは、あくまで「手法としてのアクティブラーニング」
これにたいして
「自らアクションして学ぶ」という「定義としてのアクティブラーニング」がある。
と私は思うのです。
この二つを一緒くたにして論じ合っているから、聞いている先生方は「???」となって、
結局
「アクティブラーニングはこういうことでしょう」
とこれまでの蓄積に基づいて理解してしまう人と、
「こうすればアクティブラーニング」
と早々に似非マニュアル的なものを思いつく人と、
「文科省がまたわけわかんないこと言って」
的な反応に落ち着いてしまう人と、
いろいろ出てきて、業界は、群雄割拠状態なわけで。
いやそのなかには、私が不勉強なだけで、ホントに素晴らしい理論や実践もあるかもしれません。いや、あるはずです。
ただ今のところ、私と同じ考えは見たことがなくて、私自身、ここに書いていることを思いつくまで、「アクティブラーニング」理解にほとほと苦労したので、どなたかのお役に立てれば、と、このまま話を続けます。
もう一度言います。
義務教育で実現できるアクティブラーニングは、「手法としてのアクティブラーニング」です。
なぜなら、義務教育は学ばせる教育だからです。
本来、ある程度の知見を得た人間が、それに基づいて自分が身につけたいと思うことが内面から生まれたり、あるいは外的刺激から自分のテーマを見いだしたりした後、それについてもっと知りたい衝動に駆られて学びに没頭し、自分の中にあるものと絡めながら成長するプロセスこそ、「定義としてのアクティブラーニング」のイメージするところ。
ごく一般的な子どもにこれを当てはめれば、彼らはきっと四則計算や名作読解より、ゲームの必勝法や漫画の読み書きがしたいはず。
それを思う存分、本人達の心赴くままにさせてやるなら、それは「定義としてのアクティブラーニング」に合致するでしょう。
けれど、文部科学省が「アクティブラーニング」(深く、対話的で、主体的な学び=文部科学省ウエブサイトより)で子どもに学ばせたいのは、あくまで大人達が「子どもが学ぶべき」と判断したもの(=学習指導要領)。
一番根っこの、根源的な「学びたい」という自発的欲求が欠けている時点で、あるいは学ぶべきことがあらかじめ想定されている時点で、義務教育のアクティブラーニングは「定義としてのアクティブラーニング」ではないのです。
もしかしたら学びたいことと学ばせたいことが合致しているなんてこともあるのかもしれませんが、
それは、子どもの歩み寄りや大人(教師)の啓蒙の結果でないと厳密に見分けるのは難しい気がする。
大人が考えつかないようなことを見つけて学びたがることこそ子どもの醍醐味っていう気もするし。
だからといって、「手法としてのアクティブラーニング」を批判するつもりは全くないです。
むしろ成人教育を生業にしていた私には、そちらの方がよっぽど馴染みがあります。
けれど、成人教育の場面である大学教育や社会教育では、既にそれぞれの学びたいものを選んで参加するので「定義としてのアクティブラーニング」が成立しており、だから「手法としてのアクティブラーニング」が自然で効果的です。
一方、義務教育では、根源的な学びの要求抜きに、「手法としてのアクティブラーニング」が先に施され、いわば行動療法的に主体性を育め、という図式に見えます。
すべての義務教育の教師達が、この違いをおさえて理想的な指導ができるとは、私には思えません。
もちろん、目が醒めるような素晴らしい仕事をしておられる先生方も少なからずいることと思います。
けれどぜったいにそれは多数派じゃない。
私はたまたまカナダの大学でアダルトエデュケーション(成人教育)の理論を学んだ経験があったから、「アクティブラーニング」という言葉になじみがありました。実際に、数年間はアクティブラーニングの実践を試みてもいました。
それでも、そんな私でも、毎時間、学ばせたいものを工夫して「手法としてのアクティブラーニング」の授業を創り、30人以上の子どもたちの学びを保証するなんて、ものすごいエネルギーと時間が必要だし、うまくできるかどうかも未知数です。
だから、どうすればいいのかこれだけ説明してるでしょ(=文部科学省ウエブサイトほか)
っていうけど、実際に具体的に、30人以上のエネルギーの固まりを相手に
本来「定義としてのアクティブラーニング」を発露として成立する「手法としてのアクティブラーニング」を、それだけ取り出して逆流させ、主体性を育てる。
って、たいへんですよ。
だから、似非理論やマニュアルについ頼ってしまって、わけのわからんことになる。
わけのわからんことにならないためには、
まずは「手法としてのアクティブラーニング」を理解しなくちゃいけないし、
従来型の方が効果的なものに関しては、それを採用する裁量も必要だし、
そもそも、先行する成人教育業界のアクティブラーニングだって、玉石混合なんだし、
だから自分のスタイルを見つけるべきなんだけど、それって時間のかかることだし、
だし、だし、だし、、、、、
でも、それがプロの仕事でしょ、
というのなら、
子どもの教材の会計や、副教材の注文や、教室の掃除や、配布物の印刷や、児童机と椅子の数の管理や、その他もろもろ、数えきれない、そういう雑多な仕事をするアルバイトを雇って、私たちにプロの仕事(授業研究や児童理解)にかけられる時間を確保してくれーーい。
あ、すいません.愚痴が出ました。
とにかく、このままでは(教師の多忙をそのままにして、新しいことが、よくわからないまま導入される)、
かつてのゆとり教育で生まれた「総合的な学習の時間」が、惨憺たる状態になったのと同じような現象が、「アクティブラーニング」の名の下に、各地で勃発する、と私は予言しちゃいます。
10年後、20年後が楽しみだ。
「アクティブラーニング」とはなにか
というテーマが注目の的。
いろいろな説明があります。
「子どもの頭の中がアクティブになっている状態のこと」
「一斉指導でも、子どもが主体的に学んでいればよい」
「深い学びこそアクティブラーニングの要」
とか。とか。
ちょっとまってくれーーーい。
今巻き起こっている議論を、私なりに整理したい。
まず
アクティブラーニングの定義が二つ、混同されていることを整理。
アクティブラーニングと義務教育業界の人が呼んでいるのは、あくまで「手法としてのアクティブラーニング」
これにたいして
「自らアクションして学ぶ」という「定義としてのアクティブラーニング」がある。
と私は思うのです。
この二つを一緒くたにして論じ合っているから、聞いている先生方は「???」となって、
結局
「アクティブラーニングはこういうことでしょう」
とこれまでの蓄積に基づいて理解してしまう人と、
「こうすればアクティブラーニング」
と早々に似非マニュアル的なものを思いつく人と、
「文科省がまたわけわかんないこと言って」
的な反応に落ち着いてしまう人と、
いろいろ出てきて、業界は、群雄割拠状態なわけで。
いやそのなかには、私が不勉強なだけで、ホントに素晴らしい理論や実践もあるかもしれません。いや、あるはずです。
ただ今のところ、私と同じ考えは見たことがなくて、私自身、ここに書いていることを思いつくまで、「アクティブラーニング」理解にほとほと苦労したので、どなたかのお役に立てれば、と、このまま話を続けます。
もう一度言います。
義務教育で実現できるアクティブラーニングは、「手法としてのアクティブラーニング」です。
なぜなら、義務教育は学ばせる教育だからです。
本来、ある程度の知見を得た人間が、それに基づいて自分が身につけたいと思うことが内面から生まれたり、あるいは外的刺激から自分のテーマを見いだしたりした後、それについてもっと知りたい衝動に駆られて学びに没頭し、自分の中にあるものと絡めながら成長するプロセスこそ、「定義としてのアクティブラーニング」のイメージするところ。
ごく一般的な子どもにこれを当てはめれば、彼らはきっと四則計算や名作読解より、ゲームの必勝法や漫画の読み書きがしたいはず。
それを思う存分、本人達の心赴くままにさせてやるなら、それは「定義としてのアクティブラーニング」に合致するでしょう。
けれど、文部科学省が「アクティブラーニング」(深く、対話的で、主体的な学び=文部科学省ウエブサイトより)で子どもに学ばせたいのは、あくまで大人達が「子どもが学ぶべき」と判断したもの(=学習指導要領)。
一番根っこの、根源的な「学びたい」という自発的欲求が欠けている時点で、あるいは学ぶべきことがあらかじめ想定されている時点で、義務教育のアクティブラーニングは「定義としてのアクティブラーニング」ではないのです。
もしかしたら学びたいことと学ばせたいことが合致しているなんてこともあるのかもしれませんが、
それは、子どもの歩み寄りや大人(教師)の啓蒙の結果でないと厳密に見分けるのは難しい気がする。
大人が考えつかないようなことを見つけて学びたがることこそ子どもの醍醐味っていう気もするし。
だからといって、「手法としてのアクティブラーニング」を批判するつもりは全くないです。
むしろ成人教育を生業にしていた私には、そちらの方がよっぽど馴染みがあります。
けれど、成人教育の場面である大学教育や社会教育では、既にそれぞれの学びたいものを選んで参加するので「定義としてのアクティブラーニング」が成立しており、だから「手法としてのアクティブラーニング」が自然で効果的です。
一方、義務教育では、根源的な学びの要求抜きに、「手法としてのアクティブラーニング」が先に施され、いわば行動療法的に主体性を育め、という図式に見えます。
すべての義務教育の教師達が、この違いをおさえて理想的な指導ができるとは、私には思えません。
もちろん、目が醒めるような素晴らしい仕事をしておられる先生方も少なからずいることと思います。
けれどぜったいにそれは多数派じゃない。
私はたまたまカナダの大学でアダルトエデュケーション(成人教育)の理論を学んだ経験があったから、「アクティブラーニング」という言葉になじみがありました。実際に、数年間はアクティブラーニングの実践を試みてもいました。
それでも、そんな私でも、毎時間、学ばせたいものを工夫して「手法としてのアクティブラーニング」の授業を創り、30人以上の子どもたちの学びを保証するなんて、ものすごいエネルギーと時間が必要だし、うまくできるかどうかも未知数です。
だから、どうすればいいのかこれだけ説明してるでしょ(=文部科学省ウエブサイトほか)
っていうけど、実際に具体的に、30人以上のエネルギーの固まりを相手に
本来「定義としてのアクティブラーニング」を発露として成立する「手法としてのアクティブラーニング」を、それだけ取り出して逆流させ、主体性を育てる。
って、たいへんですよ。
だから、似非理論やマニュアルについ頼ってしまって、わけのわからんことになる。
わけのわからんことにならないためには、
まずは「手法としてのアクティブラーニング」を理解しなくちゃいけないし、
従来型の方が効果的なものに関しては、それを採用する裁量も必要だし、
そもそも、先行する成人教育業界のアクティブラーニングだって、玉石混合なんだし、
だから自分のスタイルを見つけるべきなんだけど、それって時間のかかることだし、
だし、だし、だし、、、、、
でも、それがプロの仕事でしょ、
というのなら、
子どもの教材の会計や、副教材の注文や、教室の掃除や、配布物の印刷や、児童机と椅子の数の管理や、その他もろもろ、数えきれない、そういう雑多な仕事をするアルバイトを雇って、私たちにプロの仕事(授業研究や児童理解)にかけられる時間を確保してくれーーい。
あ、すいません.愚痴が出ました。
とにかく、このままでは(教師の多忙をそのままにして、新しいことが、よくわからないまま導入される)、
かつてのゆとり教育で生まれた「総合的な学習の時間」が、惨憺たる状態になったのと同じような現象が、「アクティブラーニング」の名の下に、各地で勃発する、と私は予言しちゃいます。
10年後、20年後が楽しみだ。
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