日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
2科目め『家族問題1』に突入
2015年06月21日 (日) | 編集 |
カナダ家族支援職資格取得日記⑪

 トム先生のおかげで1科目めを優秀な成績で修了し、晴れて「家族支援職資格課程」に入学を許可された私。
あと7科目を勉強すれば、晴れて資格をもらうことができる!

 というわけで、最初に選んだのは「家族問題1」。
 私は、この科目は受ける前から自信があった。
 なぜなら、それまでの10年間図書館に通いつめ、あるいは各所の講座を受け、あるいは大学の先生のところに押しかけ、いろんなことをして家族について学んでいたから。
 だからたぶんレポートなんてお茶の子さいさいって思ってた。
 心配なのは英語だけ。
 
 じっさい、学びの間じゅう、
「ああ、これはあの本のあの理論に言及すればいいな」
 とか、
「ああ、これはあの団体のサイトを見てみよう」
 とか、
 泉から湧き出るように、私の中からアイデアが溢れてくる。

 だけどもちろん、この科目を取ったことに意味がないわけはない。

 この資格課程全てに言えることなのだけれど、
 テキストはカビの生えた理論ではなく、実践的な話ばかり。
 課題は、頭の奥までほじくられるように考えさせる質問。

 このフィルターを通ることで、
私の中に混沌としていた家族に関する知識や理論が、スッキリ爽やか、整理された!

 参考までに、各単元のタイトルを書いておきます。
 日本語にするとどうしてもニュアンスが変わってしまうので、英語のまま。
※これは私が教わった時のコンテンツ。今は改訂されて内容がちょっと変わっているらしいです。

1.Family in society:Community as context
2.Family Development:Newer perspective
3.Power in Relationships and Society
4.Culture,Diversity and Prejudice
5.Gender:Role of women
6.men in Families,Men as fathers
7.Marriage and Divorce
8.Fertility,Childbirth and Parenting
9.Work and Family
10.Poverty
11.Violence and Abuse in the Family
12.Family as Caregiver
13.Resilience and Capacity

 余談ですが、これを学んだ2000年ころは、まだ今のように子どもの貧困に注目が集まっていなくて、
私も「日本には、そこまで深刻な極貧はあまりない印象がある」というレポートを書いて、
先生に叱られたことを覚えている。

 そしたらその後わりとすぐ、ブームみたいに貧困問題に注目が集まって驚いた。

 貧困問題だけじゃなくて、高齢者虐待や、父親支援、レジリエンシ―という考え方など、ここで一通り教わったものが、しばらくしてから日本で盛り上がる、というパターンがあって。

 だから、英語でモノを学ぶってことは、日本の近未来を予見できるってことなんだろうな、って今は思ってる。 で、それをめんどくさがらずにちゃんとやって、しかもその情報をもとに日本でビジネスやアクションを起こす人が成功するんだろうな、と思ってる。

 思ってはいるけど、そーいう賢いアクションを自分では決してやらずに、今日も元気に保守的な日本社会とお付き合いしている私。だって、めんどくさいんだもん。

 でも、もし自分のやっていることや世の中のことについて、迷った時や困った時、悩んだ時、あるいは何か新しいことをアクションしたい時は、絶対英語でネットを見たほうが参考になると思いますよ! 日本語と英語では、情報量そのものにも、大きな差がありますからね~。




 
コドモダマシ/ オトナダマシ
2015年06月13日 (土) | 編集 |
 久しぶりに、パオロマッツアリーノさんの本を読んだ。やっぱり面白い。最高だ。

 彼の教育論の本のタイトルにもなっている、「コドモダマシ」についてちょっと語りたい。

 よく、少なくない大人が
「子どもはちゃんと見ているよ。子どもはちゃんとわかってるよ。誰が信用できる大人なのか…」
 っていうけど、私はそうは思わない。

 「コドモダマシ」は、本当にあると思っている。
そして、子どもは、いとも簡単に「コドモダマシ」に騙される。

 別に、「子どもは、野生のカンで、信頼できる大人を嗅ぎ分ける力を持つ」という視点を否定するわけではないよ。
そういう子どももいると思う。そういう場合もあると思う。

 でもさあ、一般的には、子どもたちったら、たとえ信用するに足るとは言い難くても、「コドモダマシ」がうまい人には、けっこうまんまとノセられていると思うんだよなあ。
 一方で、朴訥で素敵な信頼感溢れる人でも、「コドモダマシ」ができない人には、彼らは、あまり魅力を感じない…。

 そもそも、「コドモダマシ」という言葉が市民権を得ているということは、それが存在することを世間の人々が了解しているからでしょう?

 学校の先生って、みんないい人たちばかりだけれど、いい人度で言ったら、こっちの人のほうが高いんじゃないかなあっていう人より、「コドモダマシ」に長けている人のほうが、子どもの心をつかむのがうまい気がするんだよね…。
 
 それで、上記のような考えを持つに至りました。
 
 あ、考えてみたら、大人だって同じ。「オトナダマシ」にまんまと騙されているんじゃない?

 誤解しないでほしいのは、
 子どもをDisっているわけでもないし、「コドモダマシ」を否定しているわけでもないんです。
 世の中を批判的に観ようと思っているわけでもない。

 ただ、本当のことがなんなのかをいつも考えていたいだけ。




 
「自分の責任で自由に遊ぶ」っていう時点で自由じゃない
2015年06月08日 (月) | 編集 |
 息子が、小学校時代のプレーパーク体験について、こうコメントした。
「プレーパークで遊ぶのが嫌でしょうがなかった。なんかやらされるし。なんとなく視線感じるし」

 おいおいおい…。
 もう二十年以上前に,公園の禁止事項を取っ払って自由に遊べる世田谷・羽根木プレーパークのコンセプトに感動してプレーパーク拡充のグループにも参加し、やがて始まった石神井公園のプレーパーク活動を大歓迎して、せっせと自分の子やその友達を連れて行っていたのに。

 石神井公園のプレーパークは常設が許されていないため、月に1回のイベント的なもの。
 大人たちが、普段の公園ではできないことを、と、ロープワークやら木工やら焼き芋やらを用意して子どもたちを誘っていたんだけど、
 
 それが、子どもにとっては、「やらされる」ことだったとは…。

 そして、子どもがプレーパークで遊ぶという事実を、プレーパークを推進する大人たちはみんな欲していたから、遊んでいる子どもを嬉しく眺めていたんだと思うけど、

 それを、子どものほうでは「なんとなく視線感じ」て遊びにくいと思っていたとは…。




 そして挙句の果てに彼は言い放った。

「ほーんと嫌だったなあ!プレーパーク。だいたい、『自分の責任で自由に遊ぶ』とか言ってる時点で自由じゃないんだよ」




…オーマイガッ