日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
もう逃げない(呆れるほど逃げてきた)
2015年01月24日 (土) | 編集 |
たぶん生まれてこの方ずっと、私は勝負から逃げてきた。

100%の力で挑んで敗れ去るのが怖いから、
勝利の見込みがあるときだけ挑んだり、
なんだかんだ理由をつけて80%の力しか使わなかったり。

その結果がこの人生だ。

もういいかげん、うんざりだよ。
お前、今いくつになったんだよ。
そのまま、一度も真摯にならないまま死んでいくつもりかよ。

あ。
一度だけあったっけ、見込みも何もなく無謀に暗闇に突っ込んで全力で奔り抜けた経験が。
ファミリーライフエデュケーターの資格に挑んだ36のとき…。
あの時は、しのごの考える暇もなく、とにかく精一杯120%の力で傷つきながら立ち向かっている感じだったよな。
頑張っているという自覚を持つ余裕さえなかった日々。
当時の私には、それしか生き抜く方法がなかったから…。

だけど、そうして手に入れたリソースで、
私は結局、勝負をしなかった。

逃げてしまった。
子育てを大事にしたいからと言って、
世間が聞く耳を持たないからと言って、
「聞かせて」と言ってくれた人に応えるだけで、

聞いてくれない人に、
積極的に学んだ知識を広める努力を全くしなかった。

そして、
挙句の果てに、
子育て支援の世界から教育の世界へと身を移してしまったのだ。

教師になりたかった。
というのは一番大きな理由だけれど。

本当はもう一つ理由がある。

私以外の人達が、
子育て支援の世界で活躍しているのを見るのが、
眩しすぎたのだ。

自分も活躍して注目されたい。
私には実力がある。
どうしてみんな気づかないんだろう。
誰か私を持ち上げてくれないかな。

注目のベースとなる努力や下積みの日々に丸ごと身を投じることをせず、
そんな他人任せな妄想だけを膨らませる日々に
自分自身が疲れてしまったのだ。

それで、
突然思い出した「子どもの頃からの夢」へ逃げたというわけ。

教員は無名性の世界だから、
ああ、あの人があんな面白いことをして注目されている、あの人も頑張って名を挙げたという焦りとは無縁。
どんなに素晴らしい学級運営をする人も、どんな魅力的な授業をする人も、みんな同じ組織の一員だ。居心地がいい。
給料は毎月税金から支払われるから、
支援を仕事として成立させなければというプレッシャーもない。

だけど最近、
何かが足りない。
全然別のフィールドの人の活躍さえ、やけに気になる。

ああ。
ここまで書いてきてやっと気がついた。
あのときがやってきたんだね。
ファミリーライフエデュケーターの資格を取るために、
英語もできないのに、カナダの大学に電話をしたあのときと同じ時空が。

私の今のこの状況を打破するためには、
あのときと同じように奔り抜けるしかないのだろう。

教育も、
支援も、
いや、そんなくくりはそもそもナンセンスだ。

恥も外聞も(できるだけ)捨てて、
残りの人生の時間を使って
できること全部やろうと思った。


(どうかみなさん、物理的な年齢を重ねてもいつまでも成長しない私を、見捨てずご指導いただけますように…)



「そんなこどどうでもいいから、御飯作ってよー」(我が家の子どもたちの声)W










私が「学校」を愛する理由 その2
2015年01月01日 (木) | 編集 |
 「学校」を好きな理由はもう一つあって。

 現代日本の学校は、
 どんな子どもたちにも、ある一定の総合的な学習経験を平等に与えられる場所だから。 

 公立小学校さえあれば、子どもの貧富の差にかかわらず、読み書きはもちろん、スポーツ、英会話、コンピューター、楽器演奏、習字、絵画や工作の制作、演劇体験など、一通りの体験が用意されている。

 だから、貧しいから、親が忙しいから、などという個々の事情の影響で、学びの体験が欠落することはない。
最低限の経験をすることができるし、やる気さえあれば、学校リソースを使ってそれ以上の学びを得ることだって可能だ。

 先生という人種は、ほぼ一人残らず、子どもが「学びたい」と目を輝かせてお願いすれば、自分の休日や休憩なんて返上して、その子のために奔走する習性を持っているのだから(笑)、授業以上の学びを得ようと思えばいくらだって得られる。

 こんな贅沢なことはなかなかない。

 時々、子どもは恵まれすぎているんじゃないかと思うくらい。
 ホントは、一番働いている成年層に、学校くらいのリソースを用意してあげてもいいんじゃないかと思う。
 だって都会では、一般向け公共リソースって絶対数が十分じゃないから、いつも抽選だの有料だので、それを使えるようにするだけで苦労が付きまとう。
 大人が、平日の夜とかに遅くまで使えるリソースが、子どもにとっての「学校」ぐらいふんだんにあってもいいよなあ。
 一番税金払っているのに。

 だから私は学校の子どもたちにいつも言うんだ。
「みんなのためにいろいろなものが、大人たちの払った税金で用意されているのはね、みんなに幸せになってほしいから、みんなに世のため人のために働く立派な人になってほしいからなんだからね!」って。

 話がずれました。

 とにかく、子どもに平等にたくさんの経験をさせてあげられる場所だから、「学校」っていいところだなあと思うんだ。

 杓子定規に言えば、これはあくまでも日本国籍がある子ども向けのサービスなんだけれど、実際には、外国人でも、無戸籍でも、子どもであればだれでも小学校に入学できる。
(無戸籍で、学校に行っていない例とがが稀にあるが、それは、無戸籍だと入学できないのではなく、存在が把握できないから入学案内を送れずに、漏れてしまうということらしい。)

 実際、今はだいたいクラスに一人は外国人の子がいるもんなあ。
(中国人、フィリピン人の子が多いけれど、ほかの国の子も学校に一人はいる感覚だ。)

 でも、どの国の子だとか関係なく、みーんなに、ホント、平等にしてあげるもんなあ。

 でも、
 そういえば。
 そのたくさんのリソースを使うことを選ばない、あるいは選べないという子どもたちもいるんだよねえ。不登校で…。

 せつないね。

 学校さえなければ、不適応なんて問題もないのにね。 
 地域の誰もが通う場所としての「学校」は、子どもにとっては絶対的な存在で。
 そして、絶対的なものとして存在してしまうと、それに合う合わないっていう悩みも生まれてしまう。

 そうすると、まわりまわって、どんなに良いものであっても、ないほうがいいのかなという発想に戻ってきてしまう。 

 やっぱり「学校」がなくなっちゃったほうが、子どもが自由になってよいのだろうか…。




 悩む。