日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
新・新人類
2014年09月28日 (日) | 編集 |
確か30年前に、私たちは「新人類」と呼ばれていた。
なんでだっけ?

その私が、今「新新人類」に遭遇している。

ドイツのアディダス本社にインターンシップで留学し、そのままドイツのアディダスに就職した日本人の若者がいると聞き、時代はそこまで来たか、と感嘆。

これでも十分、旧「新人類」の私には驚くべきことなのだけれど。

その話を使って、
将来はスポーツシューズにかかわる仕事がしたいといっている中三男子を煽ってみたらば。

私「すごいねー、ドイツのアディダスに就職だって!」
中三「(表情全く変えず)あー、でもアディダスだとちょっと違うんだよな。おれ、靴だけだから」
私「……(え? 外国で有名メーカーに就職という点にはリアクションなしかい?)」
中三「それに、俺アディダスの靴もいまいち好きじゃないしな…」

 え?

 あれ?

 私が期待する「外国のスポーツメーカーに就職」という華々しさに対する憧れが、彼から 一切! 感じられない(@_@;)。

 そういえば、コイツはもとから、
「俺は全力で生涯外国に行かない努力をする」
 と言っている奴だったっけ…。
「こんなにいい国に生まれたのに、なんで言葉の通じないところにわざわざ行く必要のかわからない」
 と言ってたっけ…。

 それどころか、
 ディズニーランドに行くことも、
「近所の公園に行きたいから」
 と断ってたし、
 
 国内旅行をすることも
「このまちでの暮らしが快適なのになぜ旅行するのかわからない」
 と言ってたし…。

だから本気で、海外にも、有名メーカーにも、ノーリアクション…。

私には、コイツらが「新新人類」だよ。
私たちの世代はほとんどみんな、外国に行くのは嬉しいことだったよ?
有名な会社に入るのをよしとしていたよ?

ついでに言うと、彼は、「大金を稼ぐ」ということにも、最初から無縁宣言をしている。

小学生の頃、ラブレターの返事に
「俺、将来お金ないけどいいの?」と書いていたのが発見されたし、

今もブレずに、
「俺、大人になったらスポーツシューズの販売員兼市民ランナーだから、あまり金はないからさあ」
と将来計画を語っている。幸せそうに。

ちなみに、販売員になる前には、そこまで強豪じゃないけど常連の大学にうまいこと進学して(有名無名・偏差値の高低は問わず)、箱根駅伝に出場した経歴を持つんだそうである。←何の根拠があるのか、彼はこれをかならず「未来の事実」として語る…。

なんというか、
醒めているわけでは決してなくて、身の丈のところを冷静に判断して、その範囲で幸せを満喫している感じなんだよね。
しかも、身の丈のところにいるのは、諦めの結果じゃなくて、ポジティブな選択なのよ。

この「ポジティブな閉じる系の生き方」って、たぶんこの子に限ったことではなくて、世代的な特徴なんじゃないかと予想する。

このスタイル、新しいし、しかも肩ひじ張らない平和や共存の可能性を秘めている感じがして私は好きだなあ。

Advocacy
2014年09月15日 (月) | 編集 |
(このカテゴリは、マミが、ファミリーエデュケーターの勉強中に、カナダの先生方に教わったりプレゼントされたりした言葉を集めています)

Advocacy 
アドボカシー  弁護 支持 擁護

 家族支援の仕事は、家族に向かうだけではありません。
 現代家族の状況を、広く社会に知ってもらい、理解を促すのも、家族支援の大事な仕事。

 たとえば、
「子育ては母親の責任」という根強い価値観に対し、親の置かれている現状を説明し、再考を促すとか、
ひとり親家庭や貧困家庭の現状をレポートし、支援の提言をするとか、
それから、
ひところ巻き起こったワークライフバランスのムーブメントも、アドボカシーといえますね…。

 とにかく、家族の側に立って、家族の代わりに世の中にその現状や、それによって生まれる悩み、困難等を説明していく。
 そして、家族支援が必要なのだという社会的合意を得られるよう働きかける。

 それがアドボカシーです。

 という書き方をするとでかくなっちゃうけど、もっと卑近な場所でも、アドボカシーは可能。
 
 実は、普通に暮らしていても、家族に関する誤解や偏見って、意外とたくさん、目に、耳にしています。
 そういうときに
「そういうこともないんだよ、だって、今ってさ…」
 と現代家族の状況を伝えるささやかなおしゃべりをするだけでもアドボカシー。

 あ、でも、そのためには、まず、家族の現状と家族にまつわる問題について明るくなければなりませんね…。
 そうでなければ、何が問題なのか、どう擁護するべきなのかがわからない。

 偏見や差別に対するアドボカシーも同じですね…。
 なにが偏見で何が差別なのかをわかっていなければ、反対の声を上げることもできない。

 結局、アドボカシーするにも、しっかりと家族支援を勉強しなければならないってことですね。

 家族支援のカバーする範疇は、実は意外と広いのです。
 

 
子どもの詩が好き 子どものための詩は嫌い
2014年09月10日 (水) | 編集 |
子どもの詩が好き
といっても
好きなのは
大人の気に入るように作ったやつじゃなくて

そういう縛りなしに
ポーンと作ったような
そういう子どもの詩

嫌いなのは
大人が作った
虫や草花や動物を
擬人化した
あの
子どものための詩


でも、まどみちおさんはすき

今までで
一番好きな、今でも断トツ第一位の
子どもの詩はこれ

出典はどこだったか
作者は誰だったか
覚えていなくて
調べようもないのだけれど
詩の本文だけ覚えてる

もしかしたら語尾とか違うかもだけど
大体こんな感じの詩


じゃ、行きます。



ねるときは 
おきていたいのに

おきるときは
まだねていたい

なんでだろう




最高だ。
小さなことからコツコツと
2014年09月07日 (日) | 編集 |
 小さなことからコツコツと。

 これは、ある一定の年齢以上の人なら聞き覚えがあるでしょう?
 漫才師の西川きよしさんが、国政に出たときのキャッチフレーズ。

 最近、この言葉が私の心の支えになっている。

 ここ数日、久しぶりにテレビやら週刊誌やらをわさわさと目にして、つくづく
「世の中にはいろんな壮絶な経験をしている人がいるんだなあ」
 とため息が出てしまった。

 それに引き換え、私はなんと世間知らずというか苦労知らずというか、温室育ちというか…。

 テレビや週刊誌に登場しないけれど、私の周囲にもまた、スゴイ実践をしている人々がたくさんいて。
 著書を出したりライブをしたり講座をしたり店をやったり、いろんな方法で活躍している。

 それに引き換え、私のやっていることの小ささよ…。

 と、自分の力のなさを自覚した時に、むくむくとこの言葉が記憶の彼方からやってくる。
 そして、
「そうだな」
 と心が落ち着く。


 小さなことからコツコツと。

 焦ってもしょうがない。
 できることしかできないんだから。

 毎日、目の前にあるやるべきこと、やろうと思っていることに、地道に取り組み続けるしかないんだよね。


 

 
⑫包括的に・全体的に
2014年09月06日 (土) | 編集 |
(ここは、ファミリーライフエデュケーターのマミが、今から親支援・子育て支援・家族支援を始めたいなあっていう人にお贈りするHOW TOでーす)

 家族支援にはいろいろありますが、北米のファミリーエデュケーションは、グループトークの形をとるのが一般的。
 日本的に言うと、「少人数講座」的なイメージかな。

 で、そういうことをやるときに、メインじゃない時間を大切にしなさい! と向こうの先生に強く言われました。

 メインじゃない時間というのは、講座の始まる前や、終わった直後、あるいは講座の中間の休憩時。
 そういう時間を、ないがしろにするなんてとんでもない、というのです。 
 なぜなら、そういう時間のほうが、参加者がリラックスしており、本音の発言が出やすく、悩みも打ち明けやすいから、メインの講座の時間よりももっと、支援のチャンスが広がっている、というのです。

 私は忠実この教えを守って、講座をするときには必ず、会場準備や片付けのお手伝いをし、講座前後、中間休憩の時間に、積極的に参加者の輪の中に入れていただいていました。

 初めて参加する方がいれば、話しかけて講座前の不安を和らげ、一人参加の方があれば、休憩時に寂しさを感じないように配慮し、終わった後の仲間づくりがしたそうな人に声をかけ…。

 すると確かに、講座のなかではうかがえないような話が聞けたり、また、講座に戻った時に、前半より話が弾んだり、講座の後に自主グループが生まれたりするという効果がありました。
 また、参加者だけでなく、主催者の方とも、いろいろな意見交換ができ、より効果的な講座を実施することもできるのです。

 前にも書きましたが、最も効果的な方法を考えるのが家族支援のやり方。

 どんな機会も逃さずに、貪欲に支援を探ります。

 たとえば、このほかにも、茶菓は講座に不可欠と言われました。参加者にリラックスしてもらうための必需品だと。
  ティーブレイク・コーヒーブレイクという言葉を持ち出すまでもなく、たしかに、茶菓があることでリラックスしたり、親近感が増したりってありますよね。
 だから絶対用意しなさい、と。…でも、日本の公民館には、飲食禁止のところが多いもんねえw。

 それから、私が講座の依頼を受けたときには、これに加えて、可能であれば畳あるいは絨毯敷きで、ペタッと平座りできるお部屋の用意もお願いしていました。
 イスとテーブルより、やっぱり畳のほうが、お互いの垣根が低くなって、リラックスして話せるんですよね。
 不思議ですねえ。

 とにかく、リラックスして、心地よく講座に参加してもらう。そして、その雰囲気の中だからこそ、参加者の皆さんが差し出してくれる一輪ずつの言葉の花を、ファミリーエデュケーターが整えて、あるいは少し必要な花(言葉)を添えて、言葉の花束にして、抱えて帰ってもらう。

 そんな感じかな。




 というわけて、
 家族支援では、プログラム(講座その他すべての))実施時間だけではなく、参加者が現れて帰るまでを、包括的に全体的に支援の場として自覚し、効果的な動きをするのが肝要なのでアリマス。

 

  
 
 
 
 
学校のダブルスタンダードをなんとする
2014年09月05日 (金) | 編集 |
 今、学校業界では「自己肯定感」が大流行で。

 学校で、自己肯定感をはぐくむプラスのストロークを児童にたくさん与えることが大事なんだそうです。

 家族支援でも、ストレンスベースドアプローチ(強みに注目するやり方)が有効と習ったし、
「子どもの善いところに注目しよう」的なキャンペーンまでは、なんとか了解できるのだけれど、

「自己肯定感をはぐくむ」とまで言われちゃうと、私はどうしても、違和感から逃れられません。

 学校 と 自己肯定感 って、 あいいれないものではないの?

 現代システムとしての学校は、言ってみれば、子どもの訓練所なわけで。
 つまり、存在自体が「子どもはそのままではいけない」」「もっと力をつけなければいけない」と主張している場所なわけで。

 一方「自己肯定感」というのは、そのままでいい、ありのままでいい ということではないのですか?
 
 かつて、北村小夜さんの「寝たきりの障害者、頑張らない障害者は、価値がないのか?」的な問題提起を目にしたとき、私は本当に自分の内面を問われた感じがして。

 「自己肯定感」ってそういうことだよね?
 
 生きてるだけでいいわけでしょ?

 学校は「もっとうまく」「もっとつよく」「もっとよく」「もっとたかく」……と、とにかく「もっと」を要求する場所なのにさ、
 右手にそれを持ちながら、左手で「ありのままでいいよ」って、おかしくない?

 いやいや、ちがうんだ、学校で自己肯定感を、というのは、その子の善くできたところを認めることを言うんだよ。
 「できる」「わかる」という感覚が、自己肯定感を高めるんだよ。

 っていつも説明してもらうんだけど。

 もう一回聞くけれど、「自己肯定感」って、条件付きじゃなくて、とにかくそのままでいいと思えることじゃないの?

 どっちかっていうと、学校で高めているのは「自信」とか「自己有用感」というほうが合ってる感じがするなあ。

 本来、というか理想を言えば、「自己肯定感」は、学校以外のところですでにはぐくまれるものであり、「自己肯定感」が満ちることによって、自己を「もっと」高めたいという自然な欲求が生まれ、そして学校がそれに応え、結果、「自信」や「自己有用感」が追加されていく、という流れ。

 この方が私にはしっくりくる。