日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
国立教育系大学付属校の役割
2014年08月31日 (日) | 編集 |
 いつどこで目にしたか耳にしたか覚えていないのだけれど。

 ロシアの教育関係者が日本の国立大付属小学校について、こうコメントしたそうだ。
「なぜ、国立なのに(国の税金を使っているのに)、教育困難児の教育をしないのか」



 なるほどねえ。
 と思ったのでこのコメントだけよく覚えている。


 (ここから少々乱暴な、イメージに論拠した論理展開になるので、あまり目くじら立てずに聞いてください。)



 日本の国立大付属小は、賢い子、品行方正な子を集めて、最高の教育をしようと試みているところ。
 いわゆるエリート養成を目指している。

 それで公立小の先生方が、そういう、筑波とかの教育実践を「すばらしい」と言って真似しようとしてるんだけど。

 批判を恐れず言ってしまうと、
 公立小と付属小じゃ、子どもが違うじゃん。
 っていつも思ってた。

 公立小には、地域によって多少はあるけど、教科教育より前に、学校内外の生活の基盤とか、学習に向かう意志を喚起することとか、あるいは特別支援とか、なんかいろいろ必要な子どもがいっぱいいるわけよ。たとえそれらが必要なくても、基礎基本を丁寧に教えてもなかなか呑み込めない子どもとか…。

 付属小で実践している教育実践が素晴らしいというのなら、放っておいてもお利口さんのエリートの卵ではなくて、 ロシアの人の言うように、公立小でお手上げの学習困難児だけを集めて、その素晴らしい指導の力量で、彼らに学ぶ喜びを味あわせてあげるほうが、税金の使い道として正しいのではないかしら。


  きっとエリートになれる子たちは、公立小でも充分なパフォーマンスができるよ。自分の力で自分の道を切り拓いていく。わざわざ集めなくても大丈夫だよ。国のお金を使うなら、特に教えるのが上手な人たちがいるのなら、ごくごく簡単な算数でも首をかしげてすがるような目をする、あの子達に教えてほしい。

 もしも、そんな子どもたちを相手にしても、付属校の実践が通用するのなら、私はその時はじめて、それを学びたいと思うだろう。 正直に言えば、今の私は、前述の「公立小と付属小じゃ、子どもが違うじゃん。」というモヤモヤがあって素直になれません。

 そう考えると、本体の大学に通う先生の卵達の教育実習の場としても、
 今の状況より、教育困難児ばかり集めた場であるほうが、有意義なんじゃないですかね…。

 さて。

 国立付属小にエリートを集めることに対して、わたしにはもうひとつ、別のモヤモヤがある。


 私は、エリートになれる子たちにはさ、弱者とともに育ってもらいたいんだ。

 今のシステムだと、付属小には「自分の子どもにより良い教育を受けさせたい」というメンタリティの親の子が付属小に集まる。そういう考えがなければ「受験」を選ばないで地域の小学校へ行くはずだからね。その意思が軽いか重いかの濃淡はあれ、その気持ちが存在しない人は、あるいは日々の生活に追われてそんなこと考える余裕のない人は、受験しないので、ハナからそこにはいない。
 それは突き詰めれば、ほんのりと利己的なにおいがする。
 非難しているのではない。
 私も親の一人として、「お受験」の魅力は痛いほどわかる。
 だけど結果として、付属小には、自分が得することに無頓着な、出し抜かれても損をしても気づかないような、競い合った時、思わず譲ってしまうような人のいいキャラクターの人間は、親に子どもにも、存在しにくいのではないだろうか、と思うのだ。

 翻って、そういう人のいいキャラクターは、社会的弱者になりがちであるという現実もある。

 いずれにしても、現代社会でうまく渡っていく裁量や才覚や意志力に欠けるとき、どうしても社会的弱者になってしまうわけで。

 だとしたら、そもそも裁量や才覚や意志力に欠ける社会的弱者の自助努力には限界があって、弱者の助け合いだけでは弱者は救われないし、世の中は変わらない、と私は思っている。

 彼らの生活が向上し、最大限の不特定多数が幸福な社会になるためには、現代社会でうまくやっていく裁量や才覚や意志力があり、なおかつ人々を導く力のあるエリート達が、その力を、社会的弱者のために使うということが必要だと、私は考えている。そして、たぶん、それが本来的な意味の「エリート」なんじゃないかって思ってる。

 そして、
 エリートがその力を社会全体、特に弱者のために使おうという強い意志を持つためには、ほんのり利己的なにおいのするエリートたちだけで固まるのではなく、身近にいろんな子ども、いろんな生活を感じながら育つほうが効果的なんじゃないかと思うのだ。


 とまあ、つらつら書き連ねましたが。

 そもそも。

 だいたい、あんなものとそれにまつわる超優秀イメージがあるから、公立小周辺の大人も子どもも、なんとなくヒエラルキーや劣等感を感じてしまうし、逆に、行った子は一生その優越感に依存してしまうかもしれないし。
 
  なんなんだろうねえ、このシステム。なくてもいいんじゃない???もしかして。








 
⑪「保育」と「子育て」と「子育て支援」そして「家族支援」の違いについて
2014年08月30日 (土) | 編集 |
(ここは、ファミリーライフエデュケーターのマミが、今から親支援・子育て支援・家族支援を始めたいなあっていう人にお贈りするHOW TOでーす)

 先日のコラム(子育て支援員)について、「保育」と「子育て」ってちがうの?というご質問をいただいたので、それについて書きます。

まずは、「保育」と「子育て」の違いを、項目別に見ていきましょう。

「保育」
                                   
集団/グループで行う                          
分業制(掃除、洗濯、食事作り、施設管理、対外交渉、財政など)
原則として病児保育、重度障害児保育は行わない       
就業時間内労働                            
子どもに対する最終責任を持たない
               
「子育て」

個人で行う
全てを母親(またはそれに代わる人)がマネジメントする
病気、障害もケアする
在宅児の場合24時間
子どもに対する最終責任を持つ
              
          
 というように、乳幼児の面倒を見る、躾をするという面では、同じように見えるこの二つですが、
実は決定的に違うんですよね。
 けれども、「保育」と「子育て」は、しばしば混同あるいは同一視されており、その結果、日本の「子育て支援」は主に保育士が担う傾向にあります。
  しかし保育士の主たる専門性は「保育」にあり、「子育て」あるいは「子育て支援」にあるわけではありません。
 
 ここを明確に押さえておかないと、いろいろと不都合が生じます。

 「保育」と「子育て」は、別のもの。

 「子育て支援」は、「子育て」の「支援」。

 ですから「子育て支援」は、「保育」ではなくて「子育て」にについて知識経験のある人が、なおかつ「支援」とはなにかについても了解・習得して初めて可能になるのです。
(ただし、レスパイト提供を含む一時預かりは、保育士が保育の専門性をもって努めることができる子育て支援です)。  
幼稚園教諭においても、同様のことが言えます。

 けれども、「保育」と「子育て」の混同ゆえ、今まで、多くの保育士さんは、保育士であるというだけで「子育て支援」を任され、あるいは託され、取り組む必要に迫られてきました。
 そしてカンのよい人ならすぐに「なにかちがう」と気づき、そしてその結果、自助努力によって「子育て」や「子育て支援」を少しずつ掴みながら、支援的活動をしてきたことと思います(少なくとも私の知っている保育士さん達はそんな感じです)。

 でも、

 「保育」と「子育て」は、別のもの。

 「子育て支援」は、「子育て」の「支援」。

 ということを抑えて眺めなおすと、保育士に「子育て支援」を任せる、というのは実は素人さんにいきなりプロの仕事をしろと言っているようなものだということがわかりますね。
 
 私に言わせれば、本来、「子育て支援」というのは、ほぼほぼ「おやしえん」なんですよね。

 だから子どものプロフェッショナルであるよりまず、親の現状、心理、夫婦関係や現代社会が親に与える影響についての認識、成人とのコミュニケーション力や成人教育学の知識等のほうが大切。

 でも、「保育」は「子どもの善い育ちへの直接的働きかけ」がメインだから、まず最初に求められるのは、子どもの発達についての基礎知識や子どもへの有効な働きかけのスキル。

 ね、ぜんぜんちがうでしょう?
 きっと、保育士の皆さんご苦労されたのではないかなあ。

 それからついでに言わせてもらうと。

 「子育て支援」と「家族支援」も、実はぜんぜんちがうんですよ。

 「子育て支援」という用語は日本のもので、英語では「家族支援=Family Supports」と総称します。

 そして 「家族支援」は、親への支援を、子育ての手助けやアドバイス、保育の提供というせまい範囲に限定しません。

 そもそも、家族支援の”家族”とは、子どものいる家族限定ではありませんし、子どものいる家族の支援に限ったとしても日本より遥かに多岐にわたります。

  だから、子育てのアドバイスどころか、就労支援や家さがしから、洋服リサイクル、食事支援、子どもや親の学習支援、心理的危機の予防、婚前教育、性教育に至るまで、とにかく家族のウエルビーイングの実現のための包括的サービスが「家族支援」。
 地域の情報提供、ファミリーセラピー、カウンセリング、福祉などの必要な支援に繋ぐ作業も支援の範疇です。

 そして、「家族支援」は、子ども支援=家族支援=地域づくりという発想、つまり、子ども-家族-地域は、切っても切れない関係にあり子どもの幸福を目指すなら、結局は家族(またはそれに代わるシステム)が、ひいては地域全体が幸福なコミュニティとなる必要がある、という考え方をベースに持ちます。

 多様な支援の提供と地域づくり、この双方の理由から、「家族支援」の実践には、子育てにかかわる人だけでない、広範囲なネットワークが不可欠です。

 というわけで、有効な家族支援者とは、広範囲なネットワークを持ち、多様な支援者とコラボして様々なサービスを家族に提供しつつ、ベースの考え方に従って、彼らとともに、恒常的な地域づくり・まちづくりの試みをささやかに続けている人のことです。

 そして日本にも、家族支援者的動きの人って、もうすでにちらほらいる気がします。
 本人は、「自分は家族支援者」と気づいていないかもしれないけれど…。




  







学校は砦
2014年08月28日 (木) | 編集 |
 常々思っていることなのだけれど。

 「学校」というリソースは、
 教師たちがそういう意識で仕事をすれば、
 さまざまなネガティブな結果を未然に予防する、たいせつな砦だ。

 特に公立小・中学校。

 そこは、私立や国立に行く少数者を除いて、地域の子どもたちが残らず集まるところ。
 円満な家庭の子がマジョリティではあるが、ネグレクト、DV、家庭不和、貧困、そんなハイリスク家庭の子どもも、
 必ず「学校」には来る。
 (無戸籍には学校さえ術はないけれど)

 例えば医療や社会教育や、もしかしたら福祉も、
 その当事者である家族メンバーの誰かが「行こう」と思わなければ、
 ハイリスク家庭と出会うことはできない。

 けれど、
 学校だけは、6歳になった子どもさえいれば、
 あらゆる子育て家族が集まる。
 だから、ここにいれば、地域のあらゆる家族に出会うことができるのだ。

 ここで、家族の中に潜むリスクの多寡を見抜いて、
 ハイリスク家庭に対して未然に予防的対策を十分にとることができれば、
 世の不幸は激減するのではないか、
 家族を幸せにする手助けができるのではないか、
 と、いつも夢想する。

 しかし残念なことに、
 教師は、児童の教科指導、生活指導のプロフェッショナル。
家族支援者ではない。

 関心事は、子どもの健やかな成長であって、家族を立て直すことではない。

 だから当然、一般的に家族支援の視点は持たないし、持っていたとしてもそのスキルはない。

 スクールカウンセラーがいる?

 残念ながら、中途半端だ。
 週一回・9時-5時の就業時間で、何校もの掛け持ちで、
 支援者たちが日々格闘する家族支援と同じアウトプットが得られるわけがない。

 そもそも、厳密に言えば、
 「カウンセラー」は心理的危機に陥った後の対処者であって、
 予防的支援の専門家ではないし。

 では、他の家族支援リソースに繋げればいいのでは、と思うかもしれないが、
 学校と家族支援を結ぶ絆も、まだまだ、たいてい糸のように細い。

 そして、なおも悲しいことに、 
 糸が繋いだ先の家族支援リソースが、十分に機能する保証は全くない。
 この国の家族支援はまだまだ、乏しすぎるくらい乏しい。
 あるいは、地域格差は想像以上に大きいのだ。


 結局、
 
 そんな中で、
 個々の教師たちは、
 それぞれが職業的カンと自助努力によって、
 それぞれのやり方で、
 保護者と対応している。

 ある人は支援的に、
 ある人は指導的に、

 ある人は寄り添うように、
 ある人は批判的に……。

 わたしは、と言えば。

 教師であると同時に、
 家族支援を知っているというのは、
 他にはないリソースだと自負しつつも  

 こんな大それた社会批判は、
 ここに書くのがせいぜいで、

 やっているのは些末なこと。

 つまり、

 こんな理論は、実社会や職場では誰にも話さず、

 せめて私のクラスの、
 いや、私の学年の、あるいは私の学校の子どものハイリスク家族にだけは、
 なんとか家族支援的サポートが届いてほしい
 と念じながら、ささやかな抵抗を試みるだけ。

 「抵抗」というのは、
 教師の口から
「こんな親ごさんじゃ、こまっちゃう」
 なんてため息が漏れたときに、
「親御さんは……かもしれませんよ」
「こういう考え方もありますよ」
 と、控えめにそーっと、家族支援理論のかけらをさし出すこと。

 とはいっても、

 「教師」の本来的仕事に忙殺されて、
 いろんな意味で、自分のクラスのことを考えるのが精いっぱいで、
 それ以外になると、
 「こうしたらいいのに」「ああしたらいいのに」
 なんて思いだけを胸に、
 他の先生のコミュニケーションをとる暇さえなく、
 やるせない日々を送ることが多いのだけれど。
 
 …明日からもうちょっと頑張ろう。

 

 
 
 


 
子育て支援員
2014年08月24日 (日) | 編集 |
 子育て支援員

 という新しい制度が始まる。

 メディア等の説明で、

「保育士不足を解消するために、研修を受けるだけで保育に従事できる子育て支援員を創設する。」
 
 と聞いて。

 もう十年以上前に、ある方の示唆をえて以来ずっと、

「保育と子育て支援は違う」

 と伝え続けてきたけど。

 やっぱり混同されているんだな…。
 報道の通りなら、なんて保育補助員とか保育支援員って名前にしなかったんだろう、と思い。

 厚生労働省のサイトで詳細を見てみたら、「子育て支援員」のなかには、子育て支援的な活動をする人たちや、そういう人向けの専門研修もあるらしい、というのがわかった。
  
 だから「子育て支援員」なのか。

 でも、メディアを通じて流される情報は、、

「保育士不足を解消するために、研修を受けるだけで保育に従事できるのが、子育て支援員」

 になってる。

 一般的な日本人の感覚はメディアの情報=正確な情報だから、
 この現象は「保育」=「子育て支援」という認識を強化するぞ…。

 なんでこういうことになっちゃったんだろう。

 この制度を作っている人たちが、その辺(「保育」と「子育て支援」)の認識がないはずはなく、
 この形に落ち着いたのには、多分、いろいろなご事情があることとは思いますが…。
 そして教育業界に旅していた私が、
 出来上がった制度に対して、今更ここで文句を言っても仕方のないことなんですが…。

 「保育支援員」と「子育て支援員」は明確に分けてほしかったなあ…。

 「子育て支援員」の報道を、なにも知らずに見た人は、絶対「保育」=「子育て支援」と刷り込まれるぞ。
 そうなると、今後、「保育」と「子育て支援」のいっしょくた現象は、ますます進むんだろうなあ。

 と思うとちょっと悲しい。

 「保育」は確かに、「子育て支援」の一手法だけれども、「保育」だけでは、「子育て支援」という大きな枠を包括しきれない。
 逆に、「子育て支援」ではない「保育」もあるのかな?
 
 まあいいや。

 誰が何と言おうと、

 「保育」と「子育て支援」は 全然専門性が違う

 と、私はしぶとく想い続けるぞ…。

 想い続けるのは、
 保育者も、支援者も、当事者(親)も、みんな幸せでいてほしいからだよ!


そ、そこ!?
2014年08月22日 (金) | 編集 |
 ひっさしぶりにファミリーライフエデュケーターの仕事をした。

 とはいっても、もちろんボランティア・無償でなんだけれど。
 (今は公務員の立場なので、ファミリーエデュケーターとしてギャラを頂くことはできないので、 お呼びがかかればどこへでも行って、無償で講座をするボランティアをしています)

 私の中のリソースを披露する機会をもらえて、その話を真剣に聞いてくださる方がいて、
 その後、聞き手だったみなさんが溢れるように自分の話をしてくださる様子を見て、
 
 家族支援の勉強をしてきてよかったなあ。
 と心から思いました。

 参加してくださった皆さん
 本当にありがとうございました。
 これきっかけで、
 あと二回、同じ仕事をすることになりました。
 嬉しいな。

 計画性のない人生だと思っていたけれど、
 参考→おまえはなーんもかわってないんだな
 それなりに積み上げたものもあったんだな。
 これを大切にしないとな。

 としみじみ思いました。

 でも、
 面白いもので、

 その中のおひとりが、
 メインの説明ではなく私が漏らした他愛もないエピソードが、
「一番印象に残った」と言われたのでびっくり。

 それは、
"家族支援は「対等で親しい関係」の上に構築することで、より効果的に機能する"
 ということを説明していた折、
「だから、おじさんの大学教授の方に講座を聞いてもらった時、『大学教授だから、その権威を打ち消すために、ステテコで登場するくらいでちょうどいいと思います』とアドバイスした」というエピソード。

「対等で親しい関係を作るということがとてもよくわかりました」だって。

 そ、そこ!?


 
おまえはなーんもかわってないんだな
2014年08月20日 (水) | 編集 |
 30年ぶりくらいなのかなあ。

 高校の同級生と久々に飲んだ。

 再会した最初は感動してたけど、終わるころには、昨日も一緒に過ごしていた感覚になっていた。
 高校、大学の時の友達って、いつまでたってもそんな感じだね。
 これは、もう、かけがえのない財産だなって思う。

 前回は、高校時代、私が地学の時間に、先生に向かって
「ちがう! 先生間違ってる! 雪は雪の精が降らせる!」
 って言ったことを思い出させられて、ものごっつ焦ったんだけど、参考→ゆきはゆきのせいがふらせる

 今回は、
「野口(私の旧姓)はなーんもかわってないなあ。引っ込み思案で、なにかやるとき、『どうしようどうしよう』って心配しているくせに、突然バーンとやっちゃって、そんで後悔するんだよな」
 って言われた。

 あーん。その通り―。
 いつもそうなんだ。
 それが私が大成しない理由!
 もっと着実に、焦らないで自分を信じて、着々とやるべきことを積み上げてきていたら、
 ファミリーエデュケーションを、家庭支援学を、もっと世に伝えられただろうに。

 引っ込み思案で、できる範囲のことしかやらなかったからなー。

 しかも、小学校の先生をやりたくなっちゃって、
 勢いで先生になっちゃって、
 そしたら、
 家庭支援学を伝える場が、実践する場がなくなって、
 あわてて、このブログを作ったりして。

 時々、
 私の拙い文章をひと様に晒して大丈夫か?
 と恐ろしい不安に襲われたりしながら、
 読んでくださったり、コメントをくださったり、イイネ!やシェアをぽちっとしてくださったりする方々に支えられて、
 なんとか自分を鼓舞して続けているけれど、
 このブログをはじめてしまったことさえ、
 なーんて大それたことを始めちゃったんだろうか、と(もちろん客観的には大したことじゃないんですけど、私の主観では大それたことなのよ)
 たまーに後悔してる。

 そんで、
 トータルで
 そんなとりとめもない、計画性のない人生を、
 今激しく後悔もしてる。

 でも、後悔するも何も、こういう人生を送ることは、最初から決まっていたのかもしれないね。

 私は高校時代から、
「なーんもかわってない」

 のだから…。

 

 
 

 

 

respite
2014年08月19日 (火) | 編集 |
(このカテゴリは、マミが、ファミリーエデュケーターの勉強中に、カナダの先生方に教わったりプレゼントされたりした言葉を集めています)

respite  レスパイト
小休止 一休み 一時的休息

 
 訳すと、上のような意味しかないのだけれど、福祉用語としては、恒常的に誰かの世話をしている人が一休みすることをさします。
 元々は、この用法は、高齢者介護のほうから来たという噂ですが、家族支援、中でも乳幼児の子育て支援の世界でrespiteと言えば、小さい子を育てている親が、少しその子を預かってもらって羽を伸ばす行為全体をさします。

 今はどうかわからないけれど、少なくとも私が家族支援を始めたころの日本は、母親が子どもを預けて遊びに行くことがはばかられる価値観がありました。

 だから、そんななかで、respiteは母親(というか、日常的に小さい子の世話をしている親)に必要不可欠でなことあって、むしろ権利なんだよ!といくら私が叫んだとて、当の本人の母親たちが「でもねえ…そうはいっても、気になって…」と二の足を踏むような状態でした。
 支援者たちからでさえ、「用があって預かるならわかるけど、なんでお母さんを遊ばせるために預かるの?」という発言が聞こえることもありました。

 ここ数年教育業界に旅しているので、子育て支援業界の最新事情に疎く、皮膚感覚で今の小さい子の親たちの価値観がどうなっているのか、いまいち掴みきれていないのだけれど、どうなんだろう…。

 respiteは、虐待予防なんですよね、つきつめれば。

 あの大御所精神科医の斉藤学さんも、著書の中で、「彼ら(小さい子)と24時間、365日接し続けると、どんな大人でもおかしくなる。母親なら大丈夫というものではない。」と書いていらっしゃいます。(「男の勘違い」より)

 だから時折,、休むことが必要なのです。

 そういう意味で仕事をしている母親は、あまりrespiteの心配がないかもしれません。そもそも子どもと離れている時間が長いから。
 育児休業の女性たちもそう。子どもとべったり一緒にいるのは限定的な期間だとわかっているから、むしろそれを楽しめる。
  二人目三人目の母親もきっと、うまく手を抜くことを知っているかも。

 だから私は、一番一所懸命な、初めての子を育てている、仕事を持たない母親たちには、とくに積極的にrespiteを利用してほしいと思っています。

 父親や実家、親類縁者、あるいは友人知人に預かってもらう、有料の一時預かりを利用する、それからママ友同士の預け合いというのもあります。方法はどうであれ、定期的なrespiteは健全な子育ての常識です!
 昔の日本はrespiteはなかったかもしれないけど、母親はたいてい仕事(家内業含む)を持っていたし、2歳児でさえ家の前で一人遊びしたりしてたらしいですからね、きっと今より「親がちゃんと見てなさい」プレッシャーは少なかったんじゃないのかな…。

というわけで
 
子育て支援者には、respiteという言葉の意味と意義を、必ず知っていてほしいと思います。
 
 
 


  
中村淳彦氏に学んでいる(ピラミッドをひっくり返そう)
2014年08月18日 (月) | 編集 |
 フェースブックにつぶやいたのだけれど。

 山奥の物販センターの商品(生産者名入り)のラインナップを通じて、
 野菜を作り、茸を採り、蜂酒を造り、獣を狩り、アクセサリーを作り、蕎麦捏ね鉢を作り、炭俵を作っている、
 君島公雄さんという、凄い人がいるらしいということがわかり、

 実物に会えないまま
 とてもときめいてしまった。

 もう一人、会ったことはないけれど、
 著書を通じて、
 今、ドキドキしながら、いろいろ教えてもらっている人がいる。

 中村淳彦さん。

 数年前に著書が映画化されたくらいの有名人だそうなのですが、私は全然存じ上げなかった。
 なんで行き着いたのか覚えていないのだけれど、
 アマゾンで、彼の著書「職業としてのAV女優」を見つけて、読んだのが始まり。

 (これもフェースブックでつぶやいたのだけれど、)
 面白くて面白くて、
 久々に、ごくごく飲み干すように読んでしまった。

 もうこの年になると、これまでのいろいろな経験値があるので、
 大概のことは、やる前知る前に想像がついてしまう。

 たとえば海外に行っても、それまでの渡航経験から類推する以上の経験をすることはあまりなかったり。
 新しい大人にあっても、その人の経歴から類推して言いそうなことがわかってしまったり。

 だから、知らないことに遭遇すると、わくわくして没頭してしまう。
 たとえば、ちょっと前まで、私を夢中にさせていたのは、お笑い芸人さん。

 私の周りにいるのは、大卒のインテリで安定した仕事をしている人ばかりなので、

 高卒で
 30過ぎて
 薄給で
 明日をも知れず

 それそれが相当個性的なのに
 ある人は売れっ子になり
 ある人はくすぶったまま

 しかも
 売れたとしても将来の保障はない

 そんな状況に身を置きながら
 舞台の上で笑っている……
 
 そんな男達が存在することに衝撃を受け、

 彼らの真相に迫るべく(?)
 密かにお笑いライブに出没していたのだけれど。

 「職業としてのAV女優」を読んでからは、
 中村淳彦さんの教えてくれる性産業の世界について知ることに夢中だ。

 あ、今気づいたけれど、お笑い芸人の研究(?)も、
 このことに興味を持つきっかけとして働いていたのかも。

 あの人たちは、テレビでも劇場でも、
 ちょくちょく少し常軌を逸した性生活や風俗遊びの話題を出す。

 私はそれで、そういう世界が現実に存在するということを
 刷り込まれたというか。
 本当に様々な風俗産業というものは存在し、目の前にいるこの人達が実際に利用しているのだ、と
 じんわり衝撃が浸透していたというか。

 清純ぶって…と言われるかもしれないけれど、本当に現実を何も知らなかったから…。
 
 とにかく、そんな芸人さんたちの様子を見て、 
 なぜ彼らはあんなにあっけらかんとそれを語ることができるのか
 女性達はどう思いながらその仕事をしているのか

 そんな問いを頭の中にぼんやりと持ち続けていた日々が、
 いわばレディネスになっていたのかも。

 中村さんの本は、無知な私に、とにかくいろいろな知識を伝授してくれた。
 
 特に気になったのは、性産業に従事する人の5人に1人がシングルマザーを含む子持ちであるということ。

 彼女達に子育てのTIPは届いているのだろうか。レスパイトはしているだろうか。困ったときに頼れる人はいるのか。
 私の所属する子育て支援NPOで、ここになんとか支援を届けることはできないだろうか。
 そんなおせっかいが今、頭をもたげてる。

 以下はなもちならない独り言
(多分この問題は、ほどなく別の支援団体も気づくだろう。
 コト子育て支援に関しては、私には本能的な鼻の良さがあるようで、 いろんな新しい支援は、私が思いついた後、しばらくすると別のところで大々的に始まって、 アイデアばかりで行動力のない私は、「あーあ、あのこと私が最初に気づいてたのに」って思うことが常だ。だから”性産業の女性たちの子育て支援”もまた、私より先に、どこかで誰かがバーン!とやりそうな気がする。でも、それでいいのだ。どこで誰がやっても、母親達が幸せになれば私は本望なのだから。)


 もうひとつの収穫。

 新刊の「日本の風俗嬢」のあとがきにこうあった。

『 超高齢化や待機児童問題が背後にある介護や保育の世界でも、すでに性風俗業界で起こってしまった負のスパイラルが始まっている。そうした業界の周辺には、「社会貢献」「社会問題の解決」「夢」などという綺麗な言葉を流通させながら、多くの介護職員や保育士が支配されて定収入で働かされている。その言葉を派手に発している発信源を探っていくと、資格ビジネス業者やフランチャイズ業者だったりする。』

 保育の世界  資格ビジネス業者  という文言にビビッときてしまった。

 この文章を読んだとき、普段私がなんとなくモヤモヤと頭にきているのは、ここなんだな、ってわかったんだ。

 保育士にしても子育て支援者(ひろばスタッフ他)にしても、 民間資格を取得したり、いろんな勉強をするために、けっこう大金を払ってるでしょ。センセイ達が、この「資格」「勉強」どうだい?って魅力的に誘うから、つい惹かれちゃう。
 それで、なけなしの給料をそういうのに払ってさ、またお金が少なくなる。

 ビンボーニンがビンボーニンからお金を流出させたらもっとビンボーになっちゃうじゃん。

 そーいうのに頭にきてさ、
 私の教えられることなら無料で教えるよ!って叫んでいたのであった、と自覚した。
 だから、
 ファミリーライフエデュケーターとしては、参加費無料の公的機関主催にずっとこだわっていたし、
 このブログのコンテンツの多くも、家族支援方法論の無償提供を目指しているのだ。

 勉強はお金なんか払わなくてもできるんだよ。
  
 図書館があるし、
 インターネットもあるし、
 志ある人が突撃すれば、良心的なセンセイなら、
 そもそも有料講座なんて形態じゃなくて、お金なんかとらないで質問に応えてくれる。

 微力ながら私も、何人も突然連絡してきた人と会って、時には奢って、時間を割いて話をしてきたし、
 自分でも逢いたい人にはお願いして会ってもらってきた。



 ……保育者や支援者のみんな、
 絶対自分達より研究者や専門職のほうがエライと思っているでしょ?
なんというか、自分達がピラミッドの一番下にいるようなイメージを持っていない?
 そんで、民間資格があると、ピラミッドを一段あがった気分がする…。

 そういうイメージを、まず自分達から覆していこうよ。
 
 ゲンバが一番大事なんだからさ、もっと尊厳を持っていい。
 
 研究者や専門職や、制度を作ったり維持したりする人たちは、
 本来、ゲンバを下から支える人達なんだ。(と私は思う)

 ピラミッドをひっくり返そう。