日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
事務処理だって、英語だよ!(当たり前)
2014年05月25日 (日) | 編集 |
カナダ家族支援職資格取得日記⑦

 パソコンと英語に苦しみながら、1科目めに取り組む私のもとに、ライアソン大学から一通の封書が届いた。

「ひえーなんだろうかー」

 当然と言えば当然のことながら、全部英語で書いてある。電子辞書片手に解読したところによると、どうも、学費が足りないから100ドル払えと言っているらしい。

 おかしいな。

 ちゃんとインターネットでクレジット決済したはずなのに。
 
 慌てて入学案内を読み返す。「読み返す」って言ったって、もちろん電子辞書片手に解読、という意味よ。

 すると通学課程の説明のほうに、インターナショナルスチューデントは学費が2.5倍になるという記述に行き当たった。
 これかなあ。これが通信課程の学生にも適用されるということなのだろうか。
 でも、それにしたら、金額が合わないんだけれど…???

 だけどその辺のことを大学とやりとりしている暇はなかった。
 だって手紙には、「期限までに払わなければ、学籍を取り消す」とかなんとか書いてあって、しかもエアメールだから私の手元にその手紙が届くまでにすでに日にちがたっていて、
 その「期限」って、

 明日なんだもん!

 時差や私の英語力を考えると電話での問い合わせは無理。
 メールを書いたって返事を待っている余裕はない。

 この時点で、私の気分は消費者金融やオレオレ詐欺に煽られているお年寄りと同じ。

 とにかく払わなくちゃ! とりあえず払わなくちゃ!

 支払方法は、大学の窓口に直接届けるか、郵便のマネーオーダーで、

って書いてあるけど、窓口に直接行けるわけないでしょう。私は遥か彼方のトーキョーにいるのだよ。だからマネーオーダーしかないんだけど…マネーオーダーって、いったい、ナニ??
 
 とりあえず近所の郵便局にママチャリを飛ばす私。

 窓口に駆け込み、

「あの、マネーオーダーってなんですか?」……

 マネーオーダーのやり方を聞いて書類をもらって一旦家に帰り、ライアソンの指示通りに書類を書いて、そして持っていったら不備があって、もう一回引き返して…。

 結局その日は悲壮な表情で三回くらい郵便局を往復しました。

 ちなみに、その都度、一歳の息子の積み下ろしも、もれなくついてくるわけで…。

 上の二人が学校や幼稚園に行っている貴重な午前中が、おかげで丸つぶれ。
 このアクシデントがなかったら、少なく見積もっても文献十ページは読めたのに…。


 後日、なんと、その請求は大学側の手違いと判明。
 それ以降の学費に充当してくれることになったのですが。

 あのロスタイムと焦りまくった気持ちはどうしてくれるの…? それは取り返しつかないよ…?
 …まあ、いい経験になったんだけれども。

「やっぱガイジンはいい加減だよなー」
 と、思わず偏見に満ちた台詞をつぶやいてしまった私でした。

 能力に満たない者が外国語で学ぶのは、ホントにもろもろ大変です。



 
⑩なにをやったか、なにをやるか
2014年05月24日 (土) | 編集 |
 今日はちょっと趣向を変えて、おやしえんの方法についてではなく、おやしえんをする人にスポットを当てちゃいます。

 私が若かりし頃。
 まだ、片手に赤ちゃんを抱え、片手に幼児の手をひいて、
 日々、子育てに奮闘していた頃。

 生活クラブ生協が運営する子育てひろばに、ボランティアスタッフとして参加したことがありました。

 そのとき、 
 メインスタッフの人に、
「赤ちゃんや小さい子を抱えている当事者がスタッフにいて、心強いわー」
 と言われました。

 ちょっと待ってくれ。
 小さい子を抱えているというのは、私にとって、テンポラリーな状況で。
 この子たちは育ち、私はやがて当事者ではなくなるのに。
 当事者じゃなくなったとき、私の存在価値はどうなるの?
 当事者じゃない私の、支援者としての存在価値はないのか?

 私は子どもを産む前から子どもの育ちに家族が果たす役割に注目し、
 子育て支援という言葉がないころからそれに類する活動をしていたという自負もあって。
 小さい子どもを抱えている当事者だから、
 活動に参加しているという感覚はこれっぽっちもなかったのだけれど。

 しかし、私の自意識とは裏腹に、しょせん世間の目から見れば、私は「当事者」でしかないのか…。
 「お母さん」であること以外、私には、支援者と呼ぶにふさわしい、なんの外的証拠もないのだ…。

  もちろん、メインスタッフの方はそんなに深く考えずに発言されただけなのですが、
 私は、そう「気づいて」愕然としてしまったのです。

 そして、
 そんなら、
 私の実力を対外的に保証するような、
 当事者じゃなくなっても一生使えそうなスペシャルな証拠をゲットしたるわい!と思って、
 カナダの家族支援職資格をゲットするに至るわけですが…。

 あれから十数年。
 
 今や、保育士の業務内容に家族支援が含まれたり、
 さまざまな民間資格や公的職業が生まれたりして、
 支援者はそれなりに、外的証拠を用意しやすい世の中になりましたね…。

 3年間かけて、もの凄くものすごーく頑張って取得した私の資格が、
 時には、
 そういう資格と大差なく語られることもあって、
 正直、ちょっと悲しい、割り切れない感じがしたりもします。

 でも、
 今、周りを見廻してみると、
 私が憧れる支援者は、
 外的証拠があるとかないとか関係なしに、
 魅力的な仕事を地道に続けているひとたち。

 そのひとたちは、
 外的証拠のことなんて考える暇なく、
 日々の仕事に夢中になっている。

 ああ、これが正解なんだよなあと思う。

 考えてみれば、
 今の私を支えているのも、
 家族支援職資格そのものではなくて、
 それを取得するために学んだ、様々な理論や方法論や現状分析、そして家族にまつわる様々な問題に対して、自分なりの考えを明示することを強いられた経験と、それをしたからこそ持てる揺るぎない自信のほう…。

 そして、その有益な知識や理論を宝の持ち腐れにしないで、もっともっとシェアしたいから、
 莫大な時間を教師という仕事に絡め取られながら、
 ファミリーライフエデュケーターであることをやめられない…。

 おやしえんをしようとすると、
 きっと、
 いろんな民間資格や華やかな名前の職業が、目につくこともあるかと思います。
 それをゲットして安心するのも一つの方法ですが、
 それに安住するのは、おやしえんではありません。

 それより、

 なにをやったか、なにをやるか が だいじ。

 支援と呼ぶにふさわしい仕事(ペイド、アンペイドにかかわらず)を、真摯に地道に続けよう。
 
 





  
 
多数絶対主義に異を唱える
2014年05月19日 (月) | 編集 |
 
 お笑いのライブに時々行くのだけれど、お笑いライブというのは、実に集客が少ない。

 テレビの人気者でも、数百がせいぜい。
 ライブによっては、学校の学芸会のほうがお客さん多いんじゃないかしらん、なんてこともあるほど。
 ジャニーズやAKBの万単位の数に比べると、本当に小さな商売。

 最近は、ますます集客に陰りが出ているようで、
 客数、数十で前列しか埋まらないなんてことも。

 だからといって、
 芸人さんたちが、客の多寡を舞台上で話題にして、多いことを喜び、少ないことを嘆くことに、私はすごく違和感がある。

 舞台上の人たちにとって、客は「数」という「塊」なのだろうか?

 少なくても、多くても、
 客の一人一人は、わざわざそのライブが見たいと考えて足を運んだことには変わりないのだから、
 何人であろうと、関係ないんじゃない?

 それなのに、

 いつも、
「今日はたくさん入っていただいてありがとうございますー」
 とか、
「今日はどうしたんでしょうねえ、すくないですねえ」
 とか。

 客の私たちに言われても知らないよ…。
 そのことを気にするのって、違うと思うよ…。

 とポーカーフェースの下でちょぴっと憤りながら、客席に座っている人がいることを、
 あの人たちは絶対知らない。

 (ちなみに、”彼ら”は多寡を話題にすることはするけど、多寡にかかわらずきっちり仕事をするという感じです。)



最終回 私が家庭支援をする理由
2014年05月18日 (日) | 編集 |

 1989年。
 忘れられない事件が起きました.東京で、4人の少年が女子高生を騙して監禁、暴行し、姉妹にはコンクリート詰にして海に投げ捨てた「女子高生コンクリート殺人事件」です。

 当時、この事件に衝撃を受けた私は、

「こんなことが二度と繰り返されないために、自分にできることはないか?」

 と考えずにはいられませんでした。

 二十五歳の頃です。

 そして同じ頃、私は、知的障害を持つ人とその家族と出会います。

 重い知恵遅れ、ダウン症、自閉症…。そういった障害を持つ人の存在が教えてくれる「目に見えないたいせつなこと」の大きさと、根強い差別や日本的家族主義、あるいは社会システムが、病児、障害児の家族だけをしんどい状況に追いやるのを目の当たりにして、

「これをなんとかできないだろうか」

 というのも、私の人生の大きなテーマになりました。

 以来十年以上、様々なジャンルの書物を漁り、人の話を聴き、自分で経験をし、私のやるべきことが見えてきました。
 
 ……こんなふうに。

『人は自分が幸せならば、けして人を不幸に陥れたりしない。きっと幸せな人ばかりなら、犯罪も起きないし、しんどい人に目や手が行き届くのでは? じゃあ、どんな人が幸せになる? それは幸せな家庭(またはそれに代わるもの)に育まれた人だ。それなら、私は、家庭が幸せになるお手伝い=家庭支援をすればいい』

 そして、この結論に至った後、カナダ・アメリカでは、すでに様々な家庭支援職が活躍しており、中でも、教育的手法を使って幸せな家族生活のお手伝いをするのは、ファミリーエデュケーターという職種、と知ります。

「これこそ、私のやりたいことだ!」 

 ピンと来た私は、矢も盾もたまらず、三十六歳三児の母しかも英語で勉強というハンデにめげず、資格プログラムの通信教育に挑み、三十九歳で日本初のファミリーライフエデュケーターになり、家庭支援の仕事を始めました。

 知ってラクになることは山ほどあります。

 とくに小さい子のお母さんたち、世間のプレッシャーを敏感に感じすぎたり、間違った情報を鵜呑みにしたりして、まるで見えない縄で自分を縛り付けているようで、私にはいたたまれません。

 また、子育てや障害児・者の現実を知らないがゆえに、他人や家族を傷つけたり、簡単な支援に気づかなかったり、空回りの支援をしてしまったり、ということもあります。

 だから、知ること・学ぶことで、よりラクに、幸せになれる情報を発信していきたい。東神楽町は、私にもう1年そんな場を与えて下さいました(感謝!)。

 来年度は趣向をかえて、子育てのメンタル面ではなく、日々の暮らしの愉しみ方や家事の工夫についてお届けします。

(2007年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載) 
⑨多面的な視点で必要な資源をつなげながら…
2014年05月13日 (火) | 編集 |
(ここは、ファミリーライフエデュケーターのマミが、今から親支援・子育て支援・家族支援を始めたいなあっていう人にお贈りするHOW TOでーす)
 
香川県の子育て支援界のスター(本人はこの言い方はきっと嫌がるでしょうが)・草薙めぐみさんが、フェースブックを通じて、レジリエンシ―の記事にコメントしてくれました。

「私もいつもその人その家族がもつ力を信じ続けながら家族支援に取り組む努力をしています。レジリエンシー、支援に関わる者が支援のあり方を多面的な視点で必要な資源をつなげながら捉えていく必要がありますね。意識することは大事なことですね。」

 そうそう、これこそ家族支援の手法だなあ…と思ったので、そのことを詳しく書こうと思います。(草薙さん引用お許しください)

“多面的な視点で必要な資源をつなげながら”

 というのは、つくづく家族支援の、福祉的手法の本質だと私は思います。

 子育て支援、おやしえんというと、なぜか子育て指南や親教育にすぐ流れてしまう感じが私はしていて。あるいは、福祉の制度にパズルピースみたいにはめ込むような感じとか。

 だけどホントにおやしえんをしようと思えば、そんなことばかりではなくて、経済的な困窮を解消するとか、家族以外のリソースを考えるとか、親のメンタルな問題に注目するとか、いやいや、もっともっと意外なところも含めて、多面的に眺めることが不可欠で。

 そして、コミュニティに今あるもの、制度やら施設やら団体やら人やらモノやら雰囲気やら…を、三次元感覚であちこちから引っ張ってきて、それを最大限に生かし、コラボで支援を創りあげる。そのために、普段からコミュニティのリソースに精通するよう努力して。

 その過程で一貫して持ち続けなければいけないのは、家族には本来子育てする力が宿っていると信じる力。
 
 家族を信じて、多面的に様相をとらえ、コミュニティのリソースを繋ぎ合わせて。

 こうやって言葉にすると、綺麗にサラッとまとまって見えるんだけど、それは、現場で見ると、実に泥臭いお金儲けの香りの一切しない、地道なお仕事なんだよね。

 あーあー、なーんでこんなことに魅了されてしまったのでしょうか。株式投資とか起業とかエンタティメントとか、そういうことに夢中になるような人だったら、お金持ちになれたかもしれないのに。

 支援とか教育なんて、報われない仕事になぜこんなにも没頭してしまうのか…。ううん、私が、というより支援者の皆さんのことですよ…。

 ほら、今日もお金にならない仕事が山盛り待っている一日なのではありませんか?

 モノ好き。
 好きなんだからしょうがないよね。
 それに言うほどお金持ちになろうっていう気もないんだよね。

 ただ、だれかを幸せにしたいんだ。



いじめるのはいじめられているからです
2014年05月10日 (土) | 編集 |
 
「子どもはどうして学校でいじめをすると思いますか?」

 ある講演会で、講師が言いました。

「親にいじめられているからですよ。子どもは、家で親にやられたことを、学校で友達にしているんです」



 ショック!
でも、確かに思い当たる節はあります。

「お母さんの言うとおりにしなさい!」
「もう、あんたなんか知らない!」
「サッサとして!なにやってるの!」

 などなど、言われてみたら、私は普段から、友人などには決して言わない強い口調で、子どもをビシバシ怒鳴りつけています……。

 私のような怒号巻き散らかしタイプでなくても、子どもほったらかしのネグレクト(育児放棄)や「あなたのため」と子どもの人生を管理徹底するのも、やっぱりいじめなのかも。

 私だって怒鳴ったそばから反省はしていますよー.なにしろプロですから、どういうふうに育てれば子どもが善く育つのかなら、ぜーんぶ頭に入っています。

「失敗をとがめないで、子どものありのままを認めると、自己肯定感を育める」とか「待つのが大事」とか……。もうてんこ盛りで知ってる!

 だけど、わかっちゃいるけどできないんです!
 だって、うちの子どもたちときたら、片付けたそばから散らかすし、すぐに遊びを優先するし、朝はなかなか起きないし、頼んだことをすぐ忘れるし……。そしてそれ以前に、私が賢母とは程遠いキャラですしね…。

 だけど、「理想」の子育てを啓蒙する人たちって、リアルに家事と子育てを、たった一人でこなしたことってあるのだろうか。

 現実は、たいてい理想どおりになんかいきません。

 だから、私は言いたいのです。

「親が、子どもをいじめるとしたら、
 それは、
 理想という幻想に、
 それを啓蒙する世間からの暗黙のプレッシャーに、
 親が、いじめられているからです」

 私が仕事をする原動力は、この状態をどうにかしたいという抑えがたい衝動です。
 どうしてもお節介が止まらない。
 なんとか、お母さんたちが自分で自分を縛ってしまった、見えない縄をほどきたい。
 病気、障害を持つ子を含む子育ての重荷と歓びを、
 地域みんなで分け合うことが、どうすれば可能なのかを知りたい。

 そう思って仕事に夢中になればなるほど、
 自分の家庭のことはお留守になっていく…。ハハハ(-_-;)

(2007年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)(一部加筆修正)
 
 
 
 


resiliency
2014年05月05日 (月) | 編集 |
(このカテゴリは、マミが、ファミリーエデュケーターの勉強中に、カナダの先生方に教わったりプレゼントされたりした言葉を集めています)

             resiliency(レジリエンシ―)

 直訳してしまうと、弾力性とか反発力とか、そういう意味になるんですけれど。
 家族支援とか福祉の業界では、レジリエンシ―といえば、人間の持つ回復力を指します。

 ライアソン大学の家族支援職資格課程では、最初に「家族問題」という科目を必修で学びます。

 ここでは、ありとあらゆる家族の周辺の問題について学ぶわけです。貧困、偏見、父親問題、虐待…。まあネガティブな話題が続く続く。何週にもわたって「問題」について学び続けるわけで、来る日も来る日もそんな話ばかりを読んで、こちらはすっかり落ち込んでしまう。

 だけどその最後に、煌めく星のようにさっそうと登場するのが、このresiliency(レジリエンシ―)。

 まずは、現実の問題としっかり向き合い、逃げずに把握する。
 だけど、どんなに深刻な現実があったとしても、人間にはもって生まれたレジリエンシ―(驚くべき回復力)がある、と最後に提示する。そして、私たち家族支援者は、このレジリエンシ―を信じて、それが最大限発揮されるように、支援を提供していけばいいのだ、とこの科目は結びます。

 ホントに救われるんだわ。
 暗澹たる気持ちが。
 最後にresiliency(レジリエンシ―)という力を知ることによって。

 他の誰でもなくその人自身の力で、人間は回復することができる。
 

 ……できるんです。



 

 

 
児童虐待
2014年05月04日 (日) | 編集 |


 ここのところ、仕事の関係で児童虐待について調べる日々が続いています。

資料によると、すでにもう何十年も前から、児童虐待(育児放棄を含む)のメカニズムは明らかにされています。

それなのに、いまだ「同じこと」が繰り返されている状況を知り、暗澹たる気持ちになってしまいました。

 「同じこと」をしているのは虐待する親ばかりではありません。
「虐待するなんてとんでもない親(なぜか特に母親は風当たりが強い)だ」というマスコミの論調と、それに同調して眉をひそめる一般の反応も、いまだ飽きずに繰り返されていることなのです。

虐待死した子どもたちにはみんな、心を込めた、可愛らしい名前がついています。
生まれた時にはきっと、虐待の果てに殺してしまうなんて思ってもみなかったのでしょう。

誰もが「子どもを善く育てたい」というのは自然な感情。
それが不幸な道を辿るのは、そうならざるをえない事情があったから。

私の出会うお母さんたちは口を揃えて、子どもが生まれるまで「子育て」がこんなに大変だとは思ってもみなかったといいます。ましてや精神的な傷、貧困、あるいは夫婦の不仲があればなおさらでしょう。
時には虐待という悲しい事態も当然起こりえます。

 そんな時、本来、親(養育者)には助けを求める「権利」がある、と知っていてくれたら…。

 けれど、世間が「虐待なんてあってはいけない」「親として、許されない」という風潮なので、虐待は隠されていきます。

 本当に児童虐待を無くしたかったら、責めるのは逆効果なのに……。

『すべての犯罪、すべての憎しみ、すべての戦争はその原因を探れば不幸に辿り着く』(A・S・ニイル)

 私は、この言葉に出会って以来、子育てしている人が幸せになることこそ、すべての悲しみの予防と考え、こうしてコラムを書かせてもらったり、道内外で講座をさせてもらったりしています。

 だけどその一方で、仕事が増えて毎日がとても忙しくなってしまい、自分の子たちに「ちょっとあっちで静かにして!」なんて怒鳴り散らすし、マンションの同じ階に住む乳幼児3人を抱えたお母さんをもっと応援したいのに、顔を合わせたとき声をかけるくらいしか出来ないでいます。

 なんだか、これっていびつだと思いませんか。

 本当は、自分の周り、自分のご近所で、ささやかな支援を細く長く続けることが、何よりも尊いことだと思います。
 私は、児童虐待を防ぐ力を一番持っているのは、プロの支援者や児童相談所ではなく、『親切なご近所さん』ではないかと、最近考え始めています。

(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)
自分の子育ては見えません
2014年05月03日 (土) | 編集 |


 きっかけは、長女の言葉でした。

予定通りに勉強が進まない様子を、いつものように厳しくののしる私に、とうとう彼女は、涙ながらに訴えたのです。

「そりゃあ私、見かけは中学生かもしれないけどさあ、まだ中身は子どもなんだもん。『中学生なんだから!』って怒られてばっかりでさー、もう嫌になっちゃうよー」

 カナダの家庭支援の原則は、
「長所に注目する」
「持っているものを活かす」
「地域全体で支える」

 北海道内はもとより、道外にもこの考えを解説して歩いている私。

 そして出逢う「お母さん」たちにも、
「生きていればいいじゃない」
「気楽にやろうよ」
「完璧な親なんていない」
 と笑顔を振り撒いているのに。

 気がついたら、自分の子どもには、ギリギリギリギリ締め付けていたのです。

「お前にはこういうところが足りないの!」
「ちゃんとしなさい!いつも頭使って」
「同じこと何度も言わせないでョ!!」

 ふう…。こうして普段の言動を思い返せば、カナダの理念や「お母さん」達へのアドバイスとは正反対の、家の中の私が見えてきます。

 ……今、私はやっとわかりました。

 なぜ、私がカナダの考え方にこんなにも惹かれ、なぜ、それを一生懸命伝え続けているのかが……。私が、それをほんとうに伝えたかったのは、実は、他ならぬ私自身だったんですね……。

 なんでも計画通りに行かないと気がすまないところのある私。そのくせ何かに集中すると他の事が手につかなくなり、結果的にはほころびだらけの私の子育て。

 そして、それをいつも後悔しては繰り返す……。
 完璧が好きで、だから自分も子どもも、そして他の人や他の子どもも、ついアラ探しして直そうとしてしまう私……。
 
 私にこそ、

「生きていればいいじゃない」
「気楽にやろうよ」
「完璧な親なんていない」

というアドバイスが、一番必要だったのです!

 私の愛読書「問題の子ども」(A・S・ニイル著、黎明書房)にこうあります。

「大人たちは『完全になりたい』という自分自身の願いを『他の人を向上させよう』という願望に置き換えてしまう」。

 何度も読んだ文章なのに、まったくその通りと思っていたのに、それが自分のことだとちっとも気づかなかったとは!

 人間、自分のことは本当に見えないものですね。

(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)