日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
初心者マークさえないのに!
2014年03月31日 (月) | 編集 |
 自動車を運転するためには免許がいります。けれど、親になるのに免許は不要。ただ、子どもを産むか引き取るか、それだけで「親」と呼ばれます。これを自動車の運転にたとえれば、初心者マークどころか、実技や筆記も学ばずに、車を買っていきなり運転をするようなもの。
数十年前なら、誰もが子どもの頃、子守りをしたり、言い継がれる知恵を耳にしたりして、子育ての方法を、知らず知らずに身につけていたのかもしれません。
しかし、今の「親」たちは、子ども時代のほとんどを学校で過ごしてきました。しかも、大家族から核家族に、縁側のある家からマンションに、などの変化が、子育てを、町じゅうの仕事から、親だけの孤独な仕事に変えてしまっています。
代わりに、現代には情報やサービスが溢れているじゃない?という意見もあるでしょう。けれど、「新生児に母乳をあげるときは、腕の下にクッションを入れるとラク」とか「きょうだいげんかは、親がジャッジ(どちらが悪いと決める)をしないとうまく収まる」というような、ホントに実用的な助言は、驚くほど少ないのです。
そんな頼りない状況の中で、現代の親たちは子育てに取り組んでいます。
それなのに、世間の人たちは、彼らの子育てが下手だったり、まちがったりするとすぐ、口々に、
「親がしっかりしてない」
「親がちゃんとしないから」
 と批判します。
 確かに、現代のような状況でも見事に子育てをこなしている人がいるから、誰もができるように錯覚してしまうのかもしれません。だけど実際には、上手くやれる人もいれば、どうしてもやれない人も…ほんとうに、いろんな「親」がいるのです。
しかし世間は通り一遍に、全ての「親」に「いい親」を求めているように思います。切ないことに「親」たちも、その風潮に敏感に反応し、みんなこぞって「いい親」であろうと躍起になっている…。そして「どうしようもない親」を、世間と一緒に批判している…。

誰でも十分「親」をすることができる。もし、支えてくれる人がいるならば。

これは、私が資格を取る際、テキストに載っていた言葉。ああ、再度肝に銘じなくては。

(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)

いま読み返すと、なにを偉そうに書いているんだかという感じですよ。ほんとうにごめんなさい。年を経れば経るほど、なにが真実で何が正しいかなんて確信が持てなくなる。わからなくなるから言えなくなる。今はこんなの書けないなあ。ああ、当時の読者の町民の皆さん、ごめんなさい。(追記再掲)
 
Community
2014年03月29日 (土) | 編集 |
(このカテゴリは、マミが、ファミリーエデュケーターの勉強中に、カナダの先生方に教わったりプレゼントされたりした言葉を集めています)

 村上龍氏のテレビ番組で、香川県高松市の丸亀町商店街の再生の顛末を特集していました。
 私も4年住んでいた懐かしの町ですし、子育て支援業界のスター・NPO法人わははネットの地元でもあるこのまち。と思ってチェックしてびっくり。

 コミュニティがあるからこそ再生できた。地域の人のつながりが成功の鍵。コミュニティという資源。

 などなど、十数年前にファミリーエデュケーターになるべく勉強していた時に、ライアソン大学の講座で出てきたキーワードや用語が目白押しにわんさか出てくる。あーびっくりした。

 というわけで、思い出したのでこれを書いています。

 家族支援学では、
「子どもと家族(または家族的なシステム)は切っても切れない関係であり、また、家族と地域も切っても切れない関係である。だから、子どものウエルネスをよくすることと、地域全体がよくなる(ディベロップメントをどう訳すか悩みますがとりあえずこれで)ことは同義である」
 というような考えにたちます。

 だから、子ども単体にアプローチするという実践はほぼなくて、家族や地域全体をよくする実践がたくさんあります。

 それは多岐にわたるのですが、2,3あげますと

家族向け

●ファミリーエデュケーションワークショップ そのコミュニティのニーズに合わせていろいろあります。7人から14人くらいで、子ども抜きで数回に渡って行います。子育て力の向上が目標。

●ドロップイン いわゆる子育て広場。日本だと、子どもを遊ばせる感じだけど、カナダだと生活支援的な意味合いもあるみたいで、古着の交換やフードバンク、おもちゃの貸し出し、昼食サービスなどを併設しているところも多いです。


地域全体

●各種イベント 日本でも結構最近盛り上がってますよね。地域でキッザニア的なのをやったりハロウイン的なのやったり。昔からある地域の祭りとかって、ホントはすごいリソース(資源)なんですよね。それも見直されてますよね。

●プロジェクト イベントより、もっと長期的本格的に地域の状況を改善しようとする試み。5年とか期間を区切ってプロジェクトチームが動く感じ。日本でもこういうスタイルが定着するとわかりやすくていいですよね。

あとこんなのも面白いなあと思いました。

●ゲリラガーデン
電信柱のたっているとことか、地域のちょっとの公共の土のある場所を勝手に花で植え尽くすの。だからゲリラ!

●フードバンク
日本にもすでに輸入されて団体が立ち上がってるけど、缶詰とか日持ちのするもので余剰する食べ物を、困窮者に循環する仕組み。

●ホームエクスチェンジ
子連れ旅行を手ぶらでする方法。同じくらいの乳幼児のある家同士で、家を交換するんだって。それでお互いの住んでいる街を旅行する。やっている人は、これを世界規模でやっているらしい。ロンドンの住人がニューヨークの住人と交換してとか。友達に話したら「日本人には無理だと思う」と言っていたけど。

 というわけで、家族支援学は、昔からコミュニティ活性化を目指しているのですよというお話でした。



 もう一つ、大事なこと。

 Community コミュニティという言葉は、地域エリアを指す言葉ではないそうで。
 むしろ、「人の集まり」と訳したほうが、正しい感じがします。

 ヒトはコミュニティなしでは、生きていくのが難しいそうです。

 私たち現代女性の、子育て最初の頃の「切なさ」「つらさ」って、これも関係していると私は思っているの。
 あの時って、学校や会社や習い事や、何かしらのコミュニティに属する人生しか過ごしてこなかった私たちが、初めて孤独になった時期だと思うから。
 子どもが幼稚園に入ると、幼稚園ママ・コミュニティに入るので、とたんにラクになる(別の悩みがあることもあるけれど)。
 だから、就園前、子どもが赤ちゃんの時から行ける「子育て広場」の役割って、子どもを遊ばせるだけでなく、ママがコミュニティに属した安心感を与えるという側面もあると思っているんだ。

 そして、ネット社会は、新しいコミュニティも生んだよね。ツイッターやブログ仲間とかフェースブックとか。
 その分、ママの孤独って減ったのかなあ?
 


 この年になると、属してきたコミュニティが増えすぎて、幸せだった日々の思い出が重すぎて
 充分幸せな毎日なのに憂鬱なんだよなー(←話が逸れてしまいました(#^.^#))。





 
 
一人目の陥る罠
2014年03月16日 (日) | 編集 |
 私が家庭支援を志したのは25歳のとき。まだ、自分の子どもが生まれる何年も前でした。
 当時、図書館に通ったり、様々な講演会に足を運んだりして、自分なりに子育てを独学していた私は、一人目の子育てでは、つい気負ったり、心配しすぎたりして、過保護・過干渉になりがちだということを、十分知っていました。

 そこで私は、一人目を育てる際に、
「この長女を、まるで次女のように育てよう」
 と、固く心に誓ったのです。あまり心配せず、あまり手をかけず、そして伸び伸びと自由に…。
夫婦でそう相談し、祖父母たちにもそう伝え、初孫を甘やかしがちな彼らに、「もっと放任して」と何度も申し入れました。

 やがて時が過ぎ、二人目、三人目と育ててきて、今思うことは…。
 何のことはありません。そんな゛誓い゛をわざわざ立て、しかも祖父母をも自分のやり方に同調させようとすること自体、気負った子育てをしていたという、紛れもない証拠なのです(笑)。

三人目を育てるにあたっては、「こう育てよう」なんて取り立てて思うことさえなく、祖父母が多少甘やかしても「まあ、いいか」と、鷹揚なもの。それなのに、もしかしたら、一人目、二人目よりもうまく育てられているような気がします。

『子育てとは、子どもに自立する力をつけること。少しずつ少しずつ成長に合わせて、親(またはそれに代わる人)の手を引っ込めていく作業』。

この鉄則を、三人目だと自然体で守れるのに、一人目だと、わかっていても、ついつい、手や口を出してしまいます。私のように、たとえ手や口を出さないと頑張ったとしても、肩の力を抜くのは本当に難しい。

 しかしこれは、考えてみれば当たり前の話。

 なにしろ、親にとって一人目は、初めての子育て、初体験尽くしの毎日なのです。いくつになっても、その年頃の子育ては、初体験であり続けるわけですから、うまくやれるほうがめずらしいに決まっています。

 一人目の子育てに奮闘する皆さん、もし、思い当たることがあっても、悲観することはありません。修正は、今からだってまだまだ間に合うし、子どもの適応力は想像以上です。

 あなたの(私の)子ども(孫)が、きっと、この一人目の運命を、たくましく生き抜くと信じましょう。

 
(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)

いま読み返すと、なにを偉そうに書いているんだかという感じですよ。ほんとうにごめんなさい。年を経れば経るほど、なにが真実で何が正しいかなんて確信が持てなくなる。わからなくなるから言えなくなる。かもしれないかもしれないと思うことをつぶやいたり、こうだってそうだってって聞いたことを伝えたりするのが精いっぱいになってくる。 ああ、当時の読者の町民の皆さん、ごめんなさい。
Strength-based approach
2014年03月15日 (土) | 編集 |
(このカテゴリは、マミが、ファミリーエデュケーターの勉強中に、カナダの先生方に教わったりプレゼントされたりした言葉を集めています)

Strength-based approach

 Strength は、普通は「長所」と訳すのだけれど、この場合は「強み」と訳すのがふさわしいと私の仲間が教えてくれました。

 だから、Strength-based approach とは、強みに注目するやり方、と訳します。
 これも、家族支援の基本となる考え方。
 この反対に位置するのが、Deficit-based approach、つまり、弱み・欠点に注目するやり方。

 問題を解決するために、今でも日本の支援業界は、あるいは教育業界は、良くないところを直す、FIXする方向で考えてしまっている気がします。

 でももうずっと前から、家庭支援学では、強みに注目するやり方を推しているのです。

 なぜなら、それが、effective だから。

 しかし、私は自分の子育てで、この理論を使いませんでした。

 ここが私のめんどくさい性格というか、扱いにくい&気難しいところというか。
 素直に習った通りに子育てすればよかったのに、なんか「自分が知っているからって、それを使っちゃうのはずるいよなあ」とか、「自分の子育ては理論なんかかんけ―なく、素の自分そのままでやろう」とか思って…。

 文字通り、紺屋の白袴。

 結果、人を責めたり厳しい目で見たりする、私の尖ったキャラの影響を多大に受けて、いつもダメ出しをされていた最初の子はすっかり萎縮してしまいました。そして、今では、なにをしていいのか、何がしたいのか、を考えるのがとても苦手な子に育ててしまったのでした。
 次の子は、最初の子のように萎縮はしていないけれど、要所要所では私の厳しい視線を受けていたので、大事な時に緊張してしまうようになってしまったといいます。
 ほぼ私が関わらずに、ただただ、家族から猫かわいがりされ放任状態で育った末っ子だけが、今となっては一番頼もしい。

 こんなところで、図らずも、自ら家庭支援理論を証明してしまいました。

 
 せめて、今、教え子たちには、できる限りStrength-based approachを採用したいと心がけております。

  


 
祈る。
2014年03月04日 (火) | 編集 |
カナダ家族支援職資格取得日記⑥

 家庭支援職資格課程のインターネット通信教育では、コース教材として、ウエブサイト(PDF含む)が指定される。その指定された複数のサイトすべてを一週間以内に読んで、配信されたテキストの質問に答え、ジャーナルと呼ばれる週一回の授業の感想レポートを書かなければならない。

 しかしチビ三人を絶賛子育て中の身では、日がな一日PCの前に座っているなんて言うわけにはいかない。当時はi pad も mac air もないから、重めのノートパソコンを持ち歩くのもつらすぎる。なにしろこちとらデフォルトで10キロからの赤ちゃんをすでに抱えているわけですから。

 というわけで、私は、この現状に対処すべく、「指定されたサイトを全部プリントアウトしてどこへでも持ち歩く」という作戦を考えた。

 週の始まりの日、慌ただしい一日が終わり、子供達が寝静まった後。
 その週の必読サイトとして指定されたページをすべてプリントアウトする。

 このとき、私はひたすら祈る。
 ホントに、PCの前で手を合わせて指をクロスして、文字通り、祈る。
 PCの印刷プレビュー画面を睨みながら、強い気持ちで祈る。

「どうか、一枚でも読まなければいけない枚数が少なく印刷されますように!」

 PCの画面のページ枚数のカウントは、時には私をあざ笑うかのように進み続け、30とか40とか、時には50という、それを英語で読む私にとっては天文学的数字を示すこともあれば、思いのほかすぐに止まり、7とか、そういう一桁の可愛い数字でおさまってくれることもある。

 そして最終的な合計枚数が少なければ、とりあえずその日は安心して眠れる。
 でももし多ければ、心臓がどきどきしてきて、眠っても不安が募り、結局明け方4時ごろから起きだして文献を読み始めてしまう。

 そんな日々。
 
 こうして、キッチンでも幼稚園でも公園でも子供の歯医者の待合室でも習い事の場でも、私は、子供の相手もそこそこに、英語の文献を眉間を皺寄せて読んでいる、感じの悪い母親となったのでした。



 

 


6年生を送る会
2014年03月01日 (土) | 編集 |
 先日、我が校で6年生を送る会があった。

 イマドキの学校のイベントコンテンツは、基本金太郎飴のようにどこに行っても同じ。たぶん、日本全国のすべてに近い小学校で、今の時期は6年生を送る会をやっていて、その中身もほぼほぼ同じだろう。

 6年生を、体育館の舞台に特設した雛壇に座らせて、5年生が仕切り、各学年が出し物をして6年生に感謝の気持ちを伝え、それに返礼として6年生が出し物をする。
 
 その出し物は、まあ大体代表の子が「そつぎょうおめでとう」「いままでありがとう」「ちゅうがくでもがんばってください」に類する言葉を言って、全体でそれを繰り返して、みんなで歌を歌うというのが定番。一学年の持ち時間は5分強だから、学年全員でやるとすれば、それが妥当。

 最初はすべてが初めてだったから大変だったけど、今、数年教員をやって何校も経験してわかった。
 この業界は、場所が変わってもやっていることは同じ。どこの学校でも同じルーティンワークが待っている。

 だから、数回目になる6年生を送る会にも慣れてしまって、はいはい、またあれやればいいのね、的な感覚で子供たちに練習をさせていたんだけど。

 本番で、自分の学年を含むいろんな学年そして6年生の出し物を見て聴いて、感動してしまった。

 現代っ子は生意気だのゲーム漬けだのいろいろ言われているけどさ、普段も、汚い言葉を言ったり友達とトラブルを引き起こしたり宿題をサボったり、いろいろしてるかもしれないけどさ、でも、今日までみんな先生の言うことちゃんと聞いて練習してきて、全員そろってきちんと立ち位置を守って、大きな声で台詞を言って、姿勢正しく綺麗な声で歌を歌って、ピアノの合図でお辞儀して……なんて素直なんだろう。

 どの学年も、一所懸命な様子が伝わってくる。

 これも見方によっては軍隊的と揶揄されてしまうのかなあ。まあ、マスゲーム的だもんなあ。

 でも、素直に、私は感動してしまった。
 みんないい子たちだなあ、って。

 3年生が、手話つきで「♪世界が一つになるまで~」っていう、忍たま乱太郎の歌を歌ったのがよかったな。
 あの歌って、子育て時代にいつもテレビから流れていたけど、改めてしっかり聞いたら、詞も曲もすごくいいんだね、びっくりした。