日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
あるメダリストのお母さん
2013年12月14日 (土) | 編集 |
 
 和香子さんは、旭川出身の某オリンピック金メダリストの『お母さん』。

 彼女の一日は長いです。まずは朝三時過ぎに起きて新聞配達。
 家に帰って高校生の娘(メダリストの妹)のお弁当を作って送り出し、その後職場に出勤。
 病院でリハビリ助手として働きます。
 そして、夕方五時過ぎに仕事が終わると、その足で、夫の主宰するスポーツ少年団の練習へ。その際には、ワゴン車で、親が送迎できない団員たちを次々拾って行きます。
 そこで3時間みっちり指導にあたり、九時過ぎに練習が終わると、彼等をまた送り届けて、自宅に戻るのは夜十時過ぎ。

 ほぼ、毎日がこの生活。

 週末には、やはり少年団関係の試合やイベントが入るし、祝日は終日練習を組むことがほとんど。

 スポーツ少年団の活動は全て無償のボランティア。無償どころか持ち出しも多く、早朝の新聞配達は、送迎用のワゴン車の費用を捻出するために始めたそう! 
 三歳から中学生までいる団員たち(私の子含む)を我が子同然に扱い、礼儀を教えたり、様々な相談に乗ったり。父母からも絶大な信頼を集めています。

 彼女がすごいのは、これだけの事をしていながら、しかも、娘さんがそれだけの有名人でありながら、奢ったところが微塵もないというところ。

「娘が金メダリストになったのは、たくさんの人の支えがあってこそ。スポーツを通じて、少しでもその恩返しができれば…」

 そういって、小さな雑用も一手に引き受ける姿が、必ずそこにあります。

 今日も、和香子さんはいつものように、明け方から新聞を配り、職場で笑顔を振りまき、そして夜には60人からの団員たちを叱咤激励することでしょう。

 誰もが認めるダメ母さんの私は、彼女のスーパー母さんぶりを、ただただ仰ぎ見るばかり。だけど彼女は、そんな私にさえ、

「大丈夫ですよ」

 と、大地のような笑顔を向けてくれるのです。


(2005年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)

子育ての師匠 尚子さん
2013年12月11日 (水) | 編集 |

 尚子さんから安曇野林檎が届きました。
 プラスチック梱包材ではなく、おがくずの詰まった段ボールで! 
 もちろん林檎は有機無農薬。手作りのキムチも添えられています。

 さすが、尚子さん! 
 なにしろ京大大学院出身で、食文化研究者になる予定だった彼女。
 食育なんて言葉が現れるずっと以前から、彼女の食生活は完璧の一言。彼女に比べれば、イマドキの食育専門家は、まだまだ甘いゾ、と思ってしまうくらい。西洋栄養学はもちろん、東洋栄養学から、食の歴史、各種自然食の流派の違いまですべて頭にインプット。その上、徹底的に農薬や添加物を排除。塩ひとつとっても、海水塩を自分で天日干しして使うのですから、後は推して知るべし…。

 3児の母でもある彼女は、子育てにも真剣でした。夫との密なコミュニケーションはもちろん、保育、学校、医療、しつけ、全てに全力投球。
「だからなー、私が子どもらの学校へ行くと黙っていてもお茶が出てくるようになってしまった」
 と彼女は笑います。

 ただ、そんな生活の代償として、どうしても論文を書く時間が取れず、研究者としての道は頓挫してしまい、
「同級生が弁護士や学者になっていい仕事しているのを見ると、正直、無性に羨ましくなる時もあるんよ…」 
 と、淋しそうな表情を見せることもありました。

 彼女の転機になったのは、5年前の安曇野への転居。今までは街中に住んでいた彼女、今度は畑の中に家を借りたのですが、ほどなく、
「ここいらの農家のおじさんやおばさん、すごいんやでー。みんな生きる知恵と哲学を持っている。彼らと付き合っていくうちに研究者や学者がなんぼのもんや! って思えるようになってね」
 と明るい声で電話がかかってきたのです。

 そして今では広大な畑を持ち、すっかり「農家のおばさん」になった尚子さん。
 林檎に添えられた手紙には、『今年も干し芋、干し柿、栗の渋皮煮、キムチ、沢庵など、あらかたの保存食を作りました。子供たちが巣立ち始め、畑の働き手を失う昔の人の辛さを味わっています』と書いてありました。

(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)

朋子さん
2013年12月09日 (月) | 編集 |
 ソフトバレー、テニス、バドミントン、加えてランチにショッピング。朋子さんの毎日を楽しくするパワーはいつも全開。
「スキーへ行こう!」
「キャンプへ行こう!」
 彼女が思い立つと、あっという間に仲間のファミリーが集まります。

(やりたいけど、面倒くさい。誘いたいけど、大丈夫かな)

 そんな躊躇の全くない、彼女のリーダーシップのおかげで、どれだけ私たち周囲の「お父さん」「お母さん」達の人生が楽しくなったことか。

「なーんや、また仕事? 早よ、ヒマになりい。一緒にランチできんやんか」

 朋子さんはいつも、こんな調子の関西弁。「子育て支援」なんて露ほどにも興味がない彼女にとって、私のファミリーエデュケーター活動はむしろ厄介なシロモノ。

 けれど、私のほうでは、実はヒソカに
「彼女こそ究極の子育て支援者」
 と思っているのです。

 本人は、全くそんなつもりはないのだけれど……。

 朋子さんの家は、絶えず人が出入りしておしゃべりを楽しむサロン。
 
 彼女は、
 訪れた人には、お茶を出しお菓子をふるまい、
 遊びに来た子どもたちは、自分の子も人の子もかまわず可愛がり、そして叱りつけます。

 そんな彼女が、自分の家族はもちろん、彼女の周囲で子育て中の私たちの人生を、どれだけ明るく照らしたことか! 
 
 これはまさに「地域に根ざした子育て支援」です。

 朋子さんに、私は一度聞いたことがあります。
「女性の自己実現とか主婦の再就職とか、そういうことって、考えたことない?」

 彼女はきょとんとした顔で答えました。

「うーん、ないなあ。毎日どうやって楽しいことを見つけるかで手一杯で、そんなこと考えるヒマないわー。そういえば一度資格を取ろうかと勉強したこともあったけど、難しすぎてやめてしまった(笑)。ま、お父さんがどうにかなったら何でもやって働くしかないんだろうけどなー」

 …彼女のパワーなら、そうなったらなったで、確かに、なんとか生きていきそうです。

(2005年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)

マルティナ!
2013年12月08日 (日) | 編集 |
 ドイツからやってきた碧い瞳と金髪の美しいひと。
 大学教師の夫と、二人の可愛いハーフの子に恵まれた幸せな人妻。
 
 マルティナの最初の印象はそんな感じ。
 だから、ハーブの乱れ咲く瀟洒な洋館にでも住んでいて、裕福で苦労知らずで……と思っていたら。

 訪れた私と由美子さん(前回登場)はビックリ。なんと彼女が住んでいたのは、アパートに毛が生えたような古ぼけた狭いマンション。おまけに幹線道路沿いで車の騒音が絶えないシロモノ。美大出身の彼女だけあってインテリアは素敵だったけど、「できれば引越ししたい」というのは同感です。

 事情をよくよく聞いてみたら、彼女の夫はまだ講師の身分で、お給料はかなり低いとのこと。そのうえ彼の実家が結婚に反対で、マルティナは、夫の留学終了とともに、1歳の息子を抱えしかも身重の身体で日本に来たにもかかわらず、物心いずれの援助も一切受けていないという……。
 
 自分で働くこともできないから、結局何をするにも、スーパーで買物するときでさえ、真剣にお財布と相談する日々。ドイツでは優しかった夫も、日本では家庭より仕事が優先。彼女は日本語がわからないのでバスにも乗れず、雨の日でもベビーカーを押しながら40分歩いて妊婦検診に通い、出産も一人で乗り越えたそうです。児童館で英語の得意な由美子さんに話しかけられるまで(マルティナは英語も堪能)、そうやって、異国の地でたった一人でふたりの幼子を育ててきた、というのです! 

 その強い精神力と生活力に、私は圧倒される思いでした。

 以来、私たち3人は急速に仲良くなり、時間さえ合えば、公園で子どもを遊ばせながら、子育てだけでなくヒトラーの自殺から日本男性論まで、さまざまなことを語り合って過ごすようになりました。そして私達は、彼女は母国に知恵遅れの姉がいて、その環境が、彼女の深い思慮と強い精神を培ってきたことも知りました。

 その後、彼女の夫が準教授に昇進し、本人も、公民館の「ドイツ語で美術史案内」講座のセンセイに。新築のマンションに引越し3人目も生まれ、印象通りの幸せな人妻になったマルティナ。
 子どもたちも大きくなり、由美子さんは仕事を始め、私も東京を離れたので、3人で語リ合う公園の午後はもうないけれど、彼女達とともに過ごした時間は、私の人生のかけがえのない宝物です。

(2005年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)



~後日談~

 事実は小説よりも奇なりということわざがあったような気がするけれど。

 ある日、なんと、マルティナの夫が、事故で急逝してしまったのです。
 そしてその後すぐに、東日本大震災が。

 だから、もともと夫の実家と折り合いが悪く、また、放射能汚染とかにすごく敏感なマルティナは、葬儀を終えると、逃げるように三人の子を連れて母国へ帰ってしまいました。
 あんなに苦労して、やっと日本の生活に馴染んだところだったのに…。


 私の手元に残るのは、彼女のドイツの住所とe mailアドレス。
 でも、今ではもう、連絡を取り合うこともありません…。

 いつか、ドイツ旅行をして、マルちゃん(私は彼女のことをしまいにはこう呼んでいた!(^^)!)と再会できたらいいな。
 この願い、お互いすっかりおばあさんになった頃には、実現するかもね。
由美子さん
2013年11月17日 (日) | 編集 |

「食べさせて、お風呂いれて、着せて、ウンチおしっこの世話もして……。これ以上アタシになにしろって言うのよ!」

 この過激な発言の主は、私の盟友・由美子さん。大学生の頃から、日本でダンサーをして稼いでは、世界放浪の旅に出ていたというツワモノ。
 しかし、私と出会った頃は、サラリーマンの夫と2人の未就園児を持つ、ごくごく普通のお母さんでした。

「だって、私の周りって俳優になりたいとか画家になりたいとか、夢を食べて生きているような人ばっかりだったじゃない? だから、毎日、きちんと会社に行って地道に生きている今の旦那が、とっても新鮮だったのよ~~。それで、思わず結婚してダンサー引退しちゃった(笑い)」

 けれど、なにしろ彼女、一時は劇団四季にもいたという本格派。専業主婦になった今でも、ついつい本格派を目指してしまいます。
 アトピーの長男に配慮した自然食品中心の手作りの料理、いつもきちんと整えられた部屋、子育てその他の託児つき講座にはまめに顔を出すし、子どもたちは毎日必ず屋外遊びに連れて行く。

「こんな生活、一人で気の向くままに世界各国を渡り歩いていたアタシにとっては、まるで鉄の玉を二つ、足に鎖で繋がれているような気分よー」
 というのが彼女の口癖。しかし、そんなグチをこぼしながらも、今では一日中子どもたちのために頑張っているから、
「お母さん、いつも子どもと向き合いましょう。家庭でのしつけというのは大切で云々……」
という保育の専門家のお説教に対して、冒頭のような悪態をついてしまったという訳です。

 彼女には何気ない一言でしたが、私には今でも心の拠所。

 子どもの相手だけをする「保育」と、家事育児その他まるごとの「子育て」は違います。特にお母さんひとりでやる「子育て」では、子どものために家事を理想的にこなそうとすればするほど、子どもと向き合う時間は削られていく。子どもと向き合おうと努力すれば、今度は、食事作りや掃除を手抜きしないと一日が終わらない。

 そんな「子育て」の現実の前で立ち往生する時、私はいつも彼女のこのセリフを思い出し、「そうだよなあ」と独りつぶやいて、クスッと笑みがこぼれます。

(2005年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)

ナツコさん
2013年11月15日 (金) | 編集 |
 ナツコさんはとても興味深い人です。

 稲垣足穂とあがた森魚が大好きで、アマチュア劇団員の過去を持ち、ピアノが弾けて、絵が描けて、その上書道は師範の腕前。長身にアニエスbのワンピースがよく似合う、なんと、元・保育士さん!

 そんなユニークな彼女ですが、今やっている『お母さん』業が、一番のお気に入り。子ども関連の様々なイベントに、いつも楽しそうに参加しています。もちろん、幼稚園の役員なども厭いません。
ただし、『お母さん』業に付き物の、料理・洗濯・掃除は、あまり好きではないそうで、カレーを作れば最低三食は、家族全員それを食べ続けるというし、掃除は文字通り「四角い部屋を丸く掃く」ので、帰宅後の夫が、ブツブツいいながらやり直すという…。

 また、彼女の日常に欠かせないのは、買物とお酒。
ヒマさえあればデパートをうろうろしたいというだけあって、彼女の双子の娘たちは、いつも安くて可愛い服や小物でキメています。
お酒のほうは、時には私たち幼稚園仲間とも飲みますが、主な相手はN子さんという幼馴染。N子さんは時折ナツコさんの家にやってきては、しばらく滞在するのですが、その間は、二人で飲んだくれて、毎日午前様。

「寝てないのよ~」
 と、少し困ったような笑顔で、赤い目をして幼稚園の送りに来たこともありました。

「自分の資格も活かさず、夫の稼ぎで暮らしているのに、家事もろくにしないで、買物三昧。挙句の果てに、毎日飲んだくれて、二日酔い状態で幼稚園の送迎とは、母親失格ではないか…」
 ここまで読んだ人の中には、そんな意見を持つ人もいるかもしれません。

 でも、ちょっと待って。

 実は、ナツコさんの幼馴染・N子さんは、精神的な病を抱えていて、社会生活が困難な人。母親との確執が病の一因でもあるため、自分の家にいるのが辛いときがあり、そんなときは、しばらくナツコさんの家に滞在するのだそうです。ナツコさんは、この滞在を毎回嫌な顔一つせずに家族で受け入れ、この古い友人が側にいる間は、ビール片手に、その訴えに丁寧に耳を傾けているのです(ナツコさんは、離れているときも、いつも彼女のことを気にかけています)。

 たとえ、家事をろくにしなくても、買物三昧の酒飲みでも、自然体で心を病む人を包み込む、深い優しさを持つナツコさんを、私は『ものすごくいいお母さん』だと思っています。

(2005年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)
はるみさん
2013年11月11日 (月) | 編集 |
「今日が結婚記念日? じゃあ、子どもたち預かってあげるから、夫婦二人でディナーに行ったら?」
 と、こともなげに言うはるみさんに、驚いたのは私のほうです。

 だって彼女とは、そのときまだ数回立ち話した程度の間柄。しかも、うちの子は手のかかる乳幼児二人。それを、いともたやすく「預かる」なんて…。私はこの一件で、その気さくで優しい人柄にすっかり参ってしまい、彼女と急速に親しくなりました。

 はるみさんとの出逢いは9年前。夫の転勤で引っ越した東京のマンションに、彼女が住んでいたのが始まりです。以来、私が北海道に移るまで、私達は、たくさんの同じ時間を過ごしました。

「無駄も大事よ」

 ぜったい計算通りにいかない子育て生活を、子無し時代と同じように効率よく進めたがる私に、先輩母さんの彼女が、苦笑しながら言った言葉です。
 
 今振り返ると、たしかにその通り! 子どもと無為に過ごした、当時の私には「無駄」としか思えなかった時間こそ、キラキラ輝く宝石のような思い出になっているから不思議。

 ある駅のベンチでのエピソードも忘れられません。子どもたちが食べ散らかしたクッキーくずを、ベンチのだけでなく周囲の地面に散らばったものまで残さずティッシュで拾うはるみさん。パッパとおざなりに、ベンチの上だけを手の甲で払う私に、彼女は弁解するように言ったのです。

「ほら、後から来る方の靴底に付いたら申し訳ないじゃない?」

 …ああ、この人は、赤の他人を含めたすべての人に対して、深い思いやりを持っているのだなあ。それに比べて私ったら。後から来る人のことなんか知ったこっちゃない、ただ人目を気にして体裁を整えただけ。恥ずかしいなあ…と、落ち込みました。

 ところで、実ははるみさん、若かりし頃、OL時代に貯めたお金でフランス留学をした経験があるとか。
「それがね、当時恋人だった、夫の国際電話と手紙攻勢に負けて、たった2週間で帰ってきちゃったの(笑)」
 そして今では「若草物語」のような四人姉妹の『お母さん』。

 私には、なんとしても彼女を日本に連れ戻して、妻にしたかった夫の気持ちが、よーくわかります。

(2005年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)
 
アヤゾー!
2013年11月03日 (日) | 編集 |
 誰もが振り向く美貌と、磨き上げられた肢体。メンソールの煙草をくわえながら深緑色のランドローバーを駆る姿は、とても『お母さん』とは思えません。ファッションも革新的で、夏にはよく、臍だしルックで幼稚園のお迎えに現れました。その影響でお父さんたちのお迎えが、急に増えたとか増えないとか…。これが、長女の通った幼稚園で、保護者仲間だったアヤゾーこと、彩子さんです。

「アヤゾーや。アヤゾーって呼んでやー!」

 見た目とは裏腹に、誰にでも、こんな調子で気軽に話しかけてくれるアヤゾー。ルックス以上に魅力的なのが、その開けっぴろげな性格とナニワ育ちの心意気でした。親しみやすい大阪弁で親にも子どもにも、先生たちにも大人気。
 アイルランド留学、カメラマン、木工作家という華麗なる遍歴を持つ彼女が、最終的に選んだのは、電気工事屋のおかみさん。なんでも、仕事場に電気工事に来た今のダンナさんに一目惚れして、押しかけ女房になったそう。 

「まあ、アタシが押し倒してモノにしてしまったようなもんや! ダンナが結婚の申し込みに来た時、うちのお父はんなんか『ほんとに、こんなやつ、もらっていいんですか』なんて言うんやでえ。ひどいやろー?(笑)」

 嫁入り後は、次々生まれた3人の男の子と同居のお姑さんの世話をしながら、電気工事士の資格も取得。アーミーパンツに黒のタンクトップで、ダンナと一緒に電信柱に登る日々です。

 そんな彼女の口癖は、
「大人が楽しくなかったら、子どもも楽しいわけないやんか」
 三〇歳を過ぎてからサンバに目覚めた彩ゾー自身、その言葉通り、いつでもどこでも、音源持参で踊って楽しんでいましたっけ。そして数年後の今では、なんと電気屋兼プロのサンバダンサー! 浅草のサンバカーニバルはもちろん、テレビのバラエティやJリーグのイベント、果てはスマップのコンサートにまで出演したそうです。

 先日、久しぶりに会った時も、
「ランドローバー売り飛ばして、そのお金で2週間、ブラジルに修行に行ってきたんやー!」
 と威勢のいいこと。その間の子どもたちの世話は、お姑さんとダンナさんが。日頃よく皆に尽くしている彼女だからこそ、家族も、快く送り出してくれるのでしょう。

『お母さん業界』には、こんなスゴイ人もいるんです。

(2005年 北海道東神楽町 広報誌に 掲載)
聡明な彼女 ~80年代の想い出~
2013年10月30日 (水) | 編集 |
最近また、デビッドボウイを聴きはじめた。思い出してしまったの。
行きつけの美容院の若い子が、私の薦めでボウイのビジュアルを見て感動し、Tシャツを買ってしまったというからさー。やはり美しさは永遠。



さて。

そのボウイをさかんに聴いていたあの頃。1980年代。



17歳・女子高生の私。
生意気盛り。


その頃の私には、非常に聡明な友人がいた。





episode 1


ある日、高校の教室で。

私はその聡明な彼女を前に演説をぶっていた。

「子どもを産むとか母乳をあげるとか信じられない。ビルばっかり建てて文明にまみれて動物じゃないような顔して生きているくせに、人間ってなんでそこだけ動物的なわけ??? 文明人現代人の一人として、私はそういう動物的な営みは絶対しない。子どもなんか絶対産まない。自分の乳を赤ちゃんが吸うなんてありえない」

聡明な彼女は黙って私の話を聞いていた。

そして少し呆れたような顔で私に言った。
「で、あんた、老後はどうすんの?」



episode 2

高校生活も終りに近づく頃、そこそこの進学校だったうちの学校の人たちは皆、大学受験のために必死で勉強していた。見栄っ張りな私も、今や死語となりつつある「東京6大学」のどこかに入りたくて、人並みに勉強を始めていた。

そんななか。
聡明な彼女はほとんど受験勉強をしなかった。

今よりもっと、早稲田だの慶応だのという学校ブランドが幅を利かせていた時代に、

彼女は平然と、
「受験が簡単で資格が取れるところに行くの」
と言って、
ほんとうにほとんど勉強せずに有名とは言えない大学に入り、しかし無資格で卒業したばかな私と違って、しっかり国家資格を手にして卒業、就職は安泰。収入も安定。

だから、
聡明な彼女は、いつまでも親元に住んでフリーの仕事を続ける私を尻目に、さっさと親元を離れ、横浜で優雅なひとり暮らしを始めた。

なんてスマートなひとなんだ。




epilogue

その後。
彼女は、いつの間にか一流企業勤務の現在の夫を見つけ、しっかり適齢期に結婚、男女の子どもに恵まれ、早くにマイホームも構え、果ては夫の海外転勤に伴い、アメリカ西海岸での暮らしを何年もエンジョイ。そして先ごろ日本に帰国した。

絵にかいたような幸せな人生を送り続けている。

それに、
ちゃんと男女の子どもを生んでいるから、彼女の老後は安泰である。17歳のあの日、私に教えてくれたとおりに。


最後まで聡明な彼女である。





……全て実話よ。