日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
アクティブラーニングの真実
2016年12月28日 (水) | 編集 |
 文部科学省の方針が明らかになるにつれて、教育業界は
「アクティブラーニング」とはなにか
 というテーマが注目の的。

 いろいろな説明があります。

「子どもの頭の中がアクティブになっている状態のこと」
「一斉指導でも、子どもが主体的に学んでいればよい」
「深い学びこそアクティブラーニングの要」

 とか。とか。

 ちょっとまってくれーーーい。

 今巻き起こっている議論を、私なりに整理したい。

まず

 アクティブラーニングの定義が二つ、混同されていることを整理。

 アクティブラーニングと義務教育業界の人が呼んでいるのは、あくまで「手法としてのアクティブラーニング」

 これにたいして

「自らアクションして学ぶ」という「定義としてのアクティブラーニング」がある。


 と私は思うのです。
   
この二つを一緒くたにして論じ合っているから、聞いている先生方は「???」となって、

結局

「アクティブラーニングはこういうことでしょう」
とこれまでの蓄積に基づいて理解してしまう人と、

「こうすればアクティブラーニング」
と早々に似非マニュアル的なものを思いつく人と、

「文科省がまたわけわかんないこと言って」
的な反応に落ち着いてしまう人と、

いろいろ出てきて、業界は、群雄割拠状態なわけで。

 いやそのなかには、私が不勉強なだけで、ホントに素晴らしい理論や実践もあるかもしれません。いや、あるはずです。

 ただ今のところ、私と同じ考えは見たことがなくて、私自身、ここに書いていることを思いつくまで、「アクティブラーニング」理解にほとほと苦労したので、どなたかのお役に立てれば、と、このまま話を続けます。

 もう一度言います。

 義務教育で実現できるアクティブラーニングは、「手法としてのアクティブラーニング」です。

 なぜなら、義務教育は学ばせる教育だからです。
 
 本来、ある程度の知見を得た人間が、それに基づいて自分が身につけたいと思うことが内面から生まれたり、あるいは外的刺激から自分のテーマを見いだしたりした後、それについてもっと知りたい衝動に駆られて学びに没頭し、自分の中にあるものと絡めながら成長するプロセスこそ、「定義としてのアクティブラーニング」のイメージするところ。

 ごく一般的な子どもにこれを当てはめれば、彼らはきっと四則計算や名作読解より、ゲームの必勝法や漫画の読み書きがしたいはず。
 それを思う存分、本人達の心赴くままにさせてやるなら、それは「定義としてのアクティブラーニング」に合致するでしょう。

 けれど、文部科学省が「アクティブラーニング」(深く、対話的で、主体的な学び=文部科学省ウエブサイトより)で子どもに学ばせたいのは、あくまで大人達が「子どもが学ぶべき」と判断したもの(=学習指導要領)。

 一番根っこの、根源的な「学びたい」という自発的欲求が欠けている時点で、あるいは学ぶべきことがあらかじめ想定されている時点で、義務教育のアクティブラーニングは「定義としてのアクティブラーニング」ではないのです。

 もしかしたら学びたいことと学ばせたいことが合致しているなんてこともあるのかもしれませんが、
 それは、子どもの歩み寄りや大人(教師)の啓蒙の結果でないと厳密に見分けるのは難しい気がする。

 大人が考えつかないようなことを見つけて学びたがることこそ子どもの醍醐味っていう気もするし。

 だからといって、「手法としてのアクティブラーニング」を批判するつもりは全くないです。
 むしろ成人教育を生業にしていた私には、そちらの方がよっぽど馴染みがあります。

 けれど、成人教育の場面である大学教育や社会教育では、既にそれぞれの学びたいものを選んで参加するので「定義としてのアクティブラーニング」が成立しており、だから「手法としてのアクティブラーニング」が自然で効果的です。

 一方、義務教育では、根源的な学びの要求抜きに、「手法としてのアクティブラーニング」が先に施され、いわば行動療法的に主体性を育め、という図式に見えます。

 すべての義務教育の教師達が、この違いをおさえて理想的な指導ができるとは、私には思えません。

 もちろん、目が醒めるような素晴らしい仕事をしておられる先生方も少なからずいることと思います。

 けれどぜったいにそれは多数派じゃない。

 私はたまたまカナダの大学でアダルトエデュケーション(成人教育)の理論を学んだ経験があったから、「アクティブラーニング」という言葉になじみがありました。実際に、数年間はアクティブラーニングの実践を試みてもいました。
 
 それでも、そんな私でも、毎時間、学ばせたいものを工夫して「手法としてのアクティブラーニング」の授業を創り、30人以上の子どもたちの学びを保証するなんて、ものすごいエネルギーと時間が必要だし、うまくできるかどうかも未知数です。

 だから、どうすればいいのかこれだけ説明してるでしょ(=文部科学省ウエブサイトほか)
 っていうけど、実際に具体的に、30人以上のエネルギーの固まりを相手に

 本来「定義としてのアクティブラーニング」を発露として成立する「手法としてのアクティブラーニング」を、それだけ取り出して逆流させ、主体性を育てる。

 って、たいへんですよ。

だから、似非理論やマニュアルについ頼ってしまって、わけのわからんことになる。

わけのわからんことにならないためには、

まずは「手法としてのアクティブラーニング」を理解しなくちゃいけないし、 
従来型の方が効果的なものに関しては、それを採用する裁量も必要だし、

そもそも、先行する成人教育業界のアクティブラーニングだって、玉石混合なんだし、
だから自分のスタイルを見つけるべきなんだけど、それって時間のかかることだし、

だし、だし、だし、、、、、


 でも、それがプロの仕事でしょ、

というのなら、

子どもの教材の会計や、副教材の注文や、教室の掃除や、配布物の印刷や、児童机と椅子の数の管理や、その他もろもろ、数えきれない、そういう雑多な仕事をするアルバイトを雇って、私たちにプロの仕事(授業研究や児童理解)にかけられる時間を確保してくれーーい。

 あ、すいません.愚痴が出ました。

 とにかく、このままでは(教師の多忙をそのままにして、新しいことが、よくわからないまま導入される)、
かつてのゆとり教育で生まれた「総合的な学習の時間」が、惨憺たる状態になったのと同じような現象が、「アクティブラーニング」の名の下に、各地で勃発する、と私は予言しちゃいます。






10年後、20年後が楽しみだ。
 
 

 


 
 


 
みのまわりのものをはかろう
2016年07月03日 (日) | 編集 |
算数

長さの勉強

教科書では、

センチやミリの勉強をして、ものさしやかずのせんの勉強をしたあと

さいごにお楽しみで、

「みのまわりのものをはかろう」

というページが出てくる。

私は、「教室内を歩き回っていいから、いろんなものをはかってごらん」

と言った。

みんなは喜んで歩き回る。

そんななか

「みのまわりのものをはかるんでしょう。だからみのまわりのもの!」

と言って、席を立たずに、座ったままの自分の周囲のものだけで、どれだけたくさんのものをはかれるかに挑戦した子がいた。

子どもは、どんな状況においても、工夫したり楽しんだりする才能を持っているんだって、改めて思った。
「××ってなあに?」
2016年05月05日 (木) | 編集 |
 小学校の1,2年生って、意外なことを知らなくって、いつも平易な言葉で話しているつもりなんだけれど、ときおり「まさか、それも知らなかったか!」と思うことがあって、びっくりする。

 そんな時、子どもはいつも「××ってなあに?」と首をかしげて私に聞く。

 その様子が愛らしいことといったらこの上ない。

 こちらがていねいにせつめいすると、

「あー」と言いながら得心したような顔をして、うなずきながら去っていく。

 また、この様子も可愛らしいことといったらない。

 日常的に、こんなふうに、知らないことを教えてあげられて、
 その上、ペタペタと懐いてもらえて、
 
 しかも給料もらって。

 最高の仕事だ。

 小学校って本当に素敵な空間だと思う。

 

 だけど、世の中には、地域の公立小をあえて拒否する人もいて。

 ある親は私立学校に
 ある親はNPO法人に
 あるいは国立学校に

 子の教育を託す。

 そこには、
 ものすごくざっくり言ってしまえば、
 公立小では飽き足らない、という心情が
 やっぱりあるんだと思う。

 私も、ずっと思っていた。
 根拠もないまま、
 公立小より、たとえばシュタイナー教育のほうが、素晴らしいんじゃないかって。

 公立小では、カリキュラムに縛られて、
 自然遊びの機会も少なく、
 探究する熱意も奪われ、
 詰め込み型の学習を強いられているだけじゃないのかって。

 でも、
 うまく言えないんだけど、
 もしかしたら、そんなに差がないんじゃないかって、
 今は思い始めてる。

 公立小の先生だって、
 いつも、
 子どもに、生き生きとした学びを提供しようって、
 頑張っているから。

 地域の大人たちも、
 いつも、
 魅力的な学びを、ボランティアで提供しようと
頑張っているから。

 どこにいたって、

子どもはわからないことは
「××ってなあに?」
 ってきいてくるし、

 わずかな休み時間に、
 校庭の片隅の、
 ほんの小さなビオトープで、
 毎日のびるを採り続け、オタマジャクシを追いかけている。

 うちのクラスのある子は、もう1年以上、迷路の制作に没頭し続けている。
 (先生の目を盗んでは、授業中にも書こうとして怒られるw)

子どもの学ぶ力ってすごい。
それを信じれば、

 お金を注ぎ込んで、
 わざわざ、
 公立小を避けなくてもいいんじゃないのかなあ。

 って思ってしまう。

 そうはいいつつ、自身の拙さゆえに充分なクオリティの学びを提供できていないことには、
 毎日密かに背筋が震えている。
 考えると怖いから、そうっと、少しずつだけその現実を見る。
 そして、ちょっとずつだけ、直していく。

だいたい
「××ってなあに」って聞かれること自体、
子どもの知識の範囲や認識を把握していない証拠でしょう。

可愛い!なんて喜んでいる場合じゃないよね。

でも、もう
たまらなく可愛いんだから仕方ない。

教員って、
働きながら、
学ばせてもらっている、

丁稚奉公システムだよな。
っていつも思う。

東京都の旦那様、
あと10年ほど奉公させていただきますww

 
アクティブラーニングについて
2016年02月28日 (日) | 編集 |
 今 小学校業界は、文部科学省の方針らしいんですが、アクティブラーニングの導入をすすめようという動きが盛んです。

 アクティブラーニングの意味について、文部科学省の用語集からコピペしてきました。

教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れ
た教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、
教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査
学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク
等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。


 でも本質的に、小学校の勉強って「決まったことをやらされている」もので、アクティブラーニングって「知りたいことを学ぶ」ものじゃないかと思うと、「決まったこと」を「アクティブラーニング」するって、似非っぽくて、どうもヘンな感じです。

 それに、アクティブラーニングの導入は、AIが席巻する未来を、子どもたちが生き抜くための力をつけるために必要。と解説されるのにも違和感。
 今、目の前にいるこの子の、この子たちの、学びを楽しむ姿を見たいから、私は頑張っているんであって、ほんとに予想通りに行くのか誰にもわからない未来のために、働いているわけじゃないんだけどなあと思ってしまう。

 以上の二つの理由から、どうもしっくりこない日々が続いております。

 小学校の先生たちは言います。「驚くことはない、今まで私たちがやってきた方法だ」

 たしかに、「発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等」の方法はあったし、「グループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク」を取り入れている授業もありました。
 世間が思っているよりずっと、今の小学校教育は、アクティブです。
 ただ、それは必ず限定的に実施されるもので、一部の授業や授業の一部でしかない。
 基本的には、「黙って静かに先生の話を聞く態度」というのが小学校児童の常識として貫かれています。

 私自身、小学校の教員をする前は、ファミリーライフエデュケーターとして、さんざんアクティブラーニング的なことをしてきたわけで。
 でも、それを封印して、郷に入れば郷に従え、で、私は、小学校では頑張って「ぐうぺたぴんでてはおひざ」「お話している人の方を向いてだまって聞く」「先生の話は鉛筆を置いて目と耳とおへそを向けて」等々、子どもたちを躾けてきましたよ。
 いわゆる「学習規律の遵守」というやつ。
 私がお付き合いするのは1~2年しかないのだから、次の学年に行ったとき戸惑わないようにと、ちゃんと「先生」の顔をしていろいろ学校の方針を護ってきました。

 今まであんなにうるさく言っていた「学習規律の遵守」と真のアクティブラーニングは、どう折り合うのでしょうか。

 ほんとにアクティブラーニングを導入するとしたら、それは、小学校教育の常識を覆すような大変なことのように私には思えるんだけれど。みんなそんなに劇的な転換ができるのかなあ。 
 学習指導要領に準じて、子どもたちが学ばなければならないと規定されているものを、本格的にアクティブラーニングで学べるようにアレンジした場合、今までやってきたような、授業の一部分だけを話し合いに使うけど、先生のお話になったら向き直るとか、そういうレベルじゃなくなると思うんだけどなあ。小学生があの人数でほんとにがっつりアクティブラーニングしたら、ぜったい大変だと思うよ!

それに、私は教員になって、想像以上に、保護者の方たちが「静かにちゃんと勉強している教室」が好きだという事を知りましたよ。
一見わさわさしているアクティブラーニングな教室を、そんな保護者の方たちは許してくれるのでしょうか。
 



 
 とかいろいろ書いたけど、結局、授業の一部に、今まで以上に活動色の強いものを盛り込む、くらいで「アクティブラーニングを導入した」ことになって落ち着くんだろうなあ。

 

 
 

 


 

 

 



 

特別支援的配慮は、大事だけれど大事じゃない。
2015年11月14日 (土) | 編集 |
 アスペルガーを含む自閉症スペクトラムを持つ子から、家庭環境の複雑な子まで、特別支援的配慮を含む児童がいる。
 
 その特性に見合った配慮はものすごく効果的だし、絶対的に必要だと思う。
 たとえば、時間を視覚表示できるタイムタイマーや、わからない時間を与えないわかりやすく隙間ない課題提示や、困った子は困っている子として見る視点だとか。
 そして、その子の善いところを見つけ、その子を褒めよう、認めよう。っていうのもわかる。だいじなのも知ってる。

 だけどそれだけかよ?って思うんだ。

 こころをこめてやっていると、
 ときには、
 とくべつしえんてきはいりょなんてどうだっていいよっ!
 っておもうことがある。

 私たちは愛を持って子どもを育てているんだ。
 
 我慢する力が弱い子でも、
 家で辛いことがある子でも、
 私は、
 許されないことは許しちゃいけないと思う。

 直感的に、そういうのは叱らなくちゃいけないって思う。
 それが私の愛。

 叱るべき時に 「この子だから仕方ない」とはっきり叱らずに
 褒めたり認めたりばかりでいいのかな。
 
 それは逆に、その子と対等な関係で対峙していないような気がするの。 
 他の子と分け隔てしていることになる気がする。

 


 冷静に言えば、

 つまり、特別支援的配慮を意識せず自然にできるくらい身につけた上で
 それを超えた、人間的なぶつかりあいを、心を懸けた関わりをしたいっていうことなんだろうな。

ちょっとえらそうだったでしょうか…(*´ω`)┛


 
きっと、一生まとわりつかれたいからだ。
2015年08月12日 (水) | 編集 |
 もしも、小学校教師の仕事が奪われてしまったら、私の精神状態はかなりやばいことになるんではないか、と思われる。

 可愛かった末っ子が、脛毛を生やした高校生になった今、我が家に、私にまとわりついてくる声変わり前の小さな子どもはいない。
 かつては、この家の中には、合計三人もの子どもがいて、私たちは、それはそれは幸せな日々を送っていたのに。
 
 残酷な「時」は、すぐにそれを私から奪ってしまった。

 だから今、私にまとわりついてくる小さな子どもは、職場にしかいない。
 私を慕って、私を頼って、そして私に愛されている小さな命。
 毎日毎日、そこに行けばみんなに会える。

 それを手に入れてしまったこの状況を奪われることを想像すると、文字通り、身を切られるような思いがする。

 子どもという存在に依存してしまっているのだろうか。

 いや、ただただ、私は子どもが好きなんだ。
「子ども好き」という周囲の女の子に対して、「偽善ぶってんじゃねー。子どもって言ったっていいやつとヤなやつがいるのに、十把一絡げで子どもって可愛い~とか言うんじゃねー」と悪態をついていた二十代の私に聞かせてやりたい。

 子どもはすべからく可愛いです。
 どの子も愛しいもんです。

 なぜこんなに好きなんだろうと不思議に思って、
 自分では理由がわからなくて、
 他のなにかを好きな人に、なぜそれが好きなのと尋ねてみる。

 だけど、納得できる返事が返ってくることはない。
 みんな頑張って、それらしい理由を探してくるけど、私にはそれが納得できる理由に感じられないのだ。
 それは理由ではなくて、後付けの言い訳のように感じられる。

 結局、みんな、なんだかわからないエネルギーに衝き動かされて、それぞれの好きなものに夢中になっている。
 そうとしか考えられない気がする。

 私のこの、子どもが好き、というかいつまでも子どもにまとわりつかれていたい、という熱情も、
 たぶん、理由なんてないんだろう。

 神様ホントに、この仕事に就かせてくれてありがとうございます。
 うまくできていないかもしれないけど、一所懸命やりますから、どうか奪わないでください。
コドモダマシ/ オトナダマシ
2015年06月13日 (土) | 編集 |
 久しぶりに、パオロマッツアリーノさんの本を読んだ。やっぱり面白い。最高だ。

 彼の教育論の本のタイトルにもなっている、「コドモダマシ」についてちょっと語りたい。

 よく、少なくない大人が
「子どもはちゃんと見ているよ。子どもはちゃんとわかってるよ。誰が信用できる大人なのか…」
 っていうけど、私はそうは思わない。

 「コドモダマシ」は、本当にあると思っている。
そして、子どもは、いとも簡単に「コドモダマシ」に騙される。

 別に、「子どもは、野生のカンで、信頼できる大人を嗅ぎ分ける力を持つ」という視点を否定するわけではないよ。
そういう子どももいると思う。そういう場合もあると思う。

 でもさあ、一般的には、子どもたちったら、たとえ信用するに足るとは言い難くても、「コドモダマシ」がうまい人には、けっこうまんまとノセられていると思うんだよなあ。
 一方で、朴訥で素敵な信頼感溢れる人でも、「コドモダマシ」ができない人には、彼らは、あまり魅力を感じない…。

 そもそも、「コドモダマシ」という言葉が市民権を得ているということは、それが存在することを世間の人々が了解しているからでしょう?

 学校の先生って、みんないい人たちばかりだけれど、いい人度で言ったら、こっちの人のほうが高いんじゃないかなあっていう人より、「コドモダマシ」に長けている人のほうが、子どもの心をつかむのがうまい気がするんだよね…。
 
 それで、上記のような考えを持つに至りました。
 
 あ、考えてみたら、大人だって同じ。「オトナダマシ」にまんまと騙されているんじゃない?

 誤解しないでほしいのは、
 子どもをDisっているわけでもないし、「コドモダマシ」を否定しているわけでもないんです。
 世の中を批判的に観ようと思っているわけでもない。

 ただ、本当のことがなんなのかをいつも考えていたいだけ。




 
学校の実態 ~映画「みんなの学校」によせて~
2015年03月30日 (月) | 編集 |
 真っ暗な映画館のシートに埋まって、いつまでもこの映画が続いてほしいと思った。

 そこには等身大の今の学校があった。
 涙がこぼれた。

 だって、

 映画としてまとめるために切り落とされた部分もあるだろうけれど、
 今できる限り誠実に映し出された公立小学校の姿がここにあると思ったから。

 それは今までほとんど外の人に見られることはなかった。
 学校公開や授業参観では、学校は、よそいきの服を着ているから。

 それを、みんなに見せてくれてありがとう。
 私も、ずっとずっと見ていたかった。

 あの映画で描かれたことは、何も特別なことなんかじゃない。
 多くの学校で行われているリアルだ。

 たった数年しか経験のない私でさえ、既視感のある風景ばかりだ。
 もちろん、自分がその風景の中にいたことだってある。

『子どもはすばらしい』
『どの子もかわいい』
 浅い意味でそう語る人たちがきっと逃げ出す現実がそこにはあるよ。




 学校の外(保護者)から学校の中(教師)に入って、痛切に感じたのは、外(保護者)で想像するよりずっと、中(教師)では子どもにエネルギーのありったけを注いでいる、ということだ。

 少なくとも私の出会った先生たちは、文字通り子どものために「心を砕いて」いた。


 教室を飛び出す子どもを、
 独り言を繰り返す子どもを、
 暴力を抑えられない子どもを、
 
抱えながら、先生たちはクラスを運営する。
それが当たり前と思っている。

大変な子がいたら、頭と心と体ごとぶつかる。

もちろん、やり方はある。だけど、セオリーはない。
つまり、そのときどきでなにがうまくいくかわからないから、頭と心と体全部使ってなんとかするしかないのだ。

そしてそんな日々のなかに、
あの映画で見られたような、
宝石のような一瞬や、はっとするような子どもの表情や、溶けそうになる大人の優しさが、
ある。


先生方はみんな優しい。
クラスの子どもたちは温かい。
どのクラスにも、
小さな心遣いで教師を助けてくれる子が必ず何人かいて、
ほかにも、
大変な子の善いところを探して報告してくれたり、
散らかした机や文房具を黙って直してくれたり、
いろんなかたちで、
子どもたちのやり方で、
その子を、
結局は包み込んでくれる。

泣きそうになったことは何度もある。
感動したことは数えきれない。

子どもってホントにやさしいよ。大変な子も含めて、みんな、かわいいよ。
大変な子がいるクラスの子は、いないクラスで過ごすより、きっとずっと、優しくなれるよ。



 公立小学校は優れた地域リソースだと、ずっと前から言ってきた。

 お金をたくさん払わなければ、素敵な教育が手に入らないとか、
 お受験をしなければ良い学校に行けないというのは幻想だ。

 公立小学校は、みんなが思っているよりずっと素敵な場所で、
 もし今そうじゃなくても、
 そうなれる可能性を秘めた場所であることは間違いないんだ。

 
 地域に住む子どもなら誰もが選別されずに行ける場所。地域の家族が繋がれる場所。
 たくさんの税金を使って創りあげたこの場所を、
 新しい試みをするまでもなく、今すでにあるこの場所を、
 信頼できる楽しい場所にする。


 
 私の小さくて果てしない野望。



 もうすぐ新学期。
   


 



 
「生きる力」を育むという理念を持つ国は? 続き
2015年03月30日 (月) | 編集 |
 前回の記事「生きる力」を育むという理念を持つ国は?(←読むにはここをクリック)に、フェースブックのほうで、「続きが読みたいのに!」というコメントを頂き、そーいうのが気になってしまう私は、頑張ってその先を考えました。

 そして、凄いことに気づいてしまった!

 大発見!と思っているのはもしかしたら私だけかもしれないんですが、大台に乗って図々しく生きることを誓ったので、「凄いことを発見」と言い切ってしまいます。

 その発見とは、教育における文部科学省の方針と世間の評判(あるいは教育の実態)の例に限らず、



 さまざまな場面で、少なくない人達が、

”自分に自然とはいってきた情報を材料に、批判的なことを言う”

 という習慣を知らず知らず身に着けている。




 ということです!

 だから、(実態はどうあれ)国が「生きる力を育む」と、みんなが納得しそうな言葉を使った方針を出していても、
 自分の見聞する範囲で、「日本だめじゃん」という人がいるんではないのかしらん。

 この行動様式、ものすごく親近感がある。

 何かを考えるとき、ほんとはもっと多角的にそして深く知らなければ語ることができないはずなのに、手に入る情報だけで判断してしまったり、新しいことや情報に対して、歓迎するよりまずは懐疑的に接してしまったり。

 そうなのだ。他でもない私は、過去にこのような人間でありました。



 なんて言うんだろう。

 何か(誰か)を見る時、その後ろに必ずいくばくかの見えない真実があると考えるようになったとか、
 新しいこと、馴染のないこと、見ず知らずの人との出会いを、嬉しくてたまらないとしか思えなくなるとか、

 そういう境地になったのは最近で。
 これを年の功というならそうかもしれないけど、
 若い人でその境地に至っている人がたくさんいるから、
 やっぱり、私がとにかく鈍くさいってことなんだよな。
 

 
「生きる力」を育むという理念を持つ国は?
2015年03月28日 (土) | 編集 |
 子どもの生きる力を育むという理念のもとに、学校教育をしている国はどこでしょう?




 正解は、日本でございます。

 以前、ファミリーライフエデュケーターとして講座をしたときに、この問題を出したら、講座参加者のなかで正解者はゼロでした。
 「どこだと思いますか」という問いに、北欧やヨーロッパの国々をあげている人が多かったかな。


 でも日本だったんですねえ。


『 現在の学習指導要領は、子どもたちの現状をふまえ、「生きる力」を育むという理念のもと、知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。
 これからの教育は、「ゆとり」でも、「詰め込み」でもありません。
 次代を担う子どもたちが、これからの社会において必要となる「生きる力」を身に付けてほしい。そのような思いで、現在の学習指導要領を定めました。
 「生きる力」を育むためには、学校だけではなく、ご家庭や地域など社会全体で子どもたちの教育に取り組むことが大切です。
 子どもたちの未来のために。』(文部科学省ウエブサイト)

ですって。



 だけどなぜか世間では、

「日本の教育は知識偏重」
「学校は勉強ばかりで大事なことを教えない」
「学校は閉鎖的。わかってくれない」

 という声がいまだ渦巻いています…。






 この先を書こうとして、コトの壮大さに気づいて、萎えた。