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日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
新春「家ついていっていいですか」スペシャルを見て思ったこと
2019年01月02日 (水) | 編集 |
 テレビ東京の「家ついていっていいですか」っていう番組が大好きで毎回見ている。

 まちなかで、終電を逃した人に声をかけ、「タクシー代を払うので家についていっていいですか」と声をかけ、オーケーしてくれた人の家にいって、その人の人生について聞く番組。
 声をかけられたときは、どこにでもいる普通の人に見えた人が、家についていっていろいろ話しを聞いてみると、それぞれ思いもよらなかった人生を抱えて生きている。毎回そのドラマに驚く。

 新年は3時間超のスペシャルだった。

 その中に登場した一人の人生が、
 私には、
 ファミリーライフエデュケーターの私には、
 やるせなくてたまらなかった。

 埼玉県にすむ、一人暮らしの60代の女性(とは思えないほど若々しい見た目だったけど)。

 もともとは普通のお母さん。
 自身の心臓の病をおして産んだ一粒種の男の子を大切に大切に育てていたそうだ。

 けれど、幼稚園で、息子の行動が遅いことを注意され「しっかり躾けてください」と言われて追いつめられ、そこから、小学校時代もずっと言葉の虐待を続けてしまった、と。

 世間に子どもがちゃんとしていないと指摘されると、自分がちゃんとしていないからと言われた気持ちがして、どうしても子どもにちゃんとしてと強要してしまう。
  愛しているから、怒ってしまっては後悔するの繰り返し。

 やがて息子が成長し、今度は彼が反抗的な行動を繰り返し、とうとう母親である自分が家を出るしかなくなった。
 それから一人暮らしなのだ、と。

 だれも悪くない。

 哀しい話だ。
 
 今までも何度も無力感を感じてきた。
 私のできることなんてほんの少しで、だから、例えば、砂浜で砂を掬っても掬っても指の間からこぼれる。
 ずっとそんな感覚を抱えて来た。
 それがまた襲って来た。

 ファミリーライフエデュケーションは直訳すると「家族生活教育」。
 だから日本語のイメージだと「正しい家族生活を教える」というイメージになってしまう。
 だけどちがう。
 ファミリーライフエデュケーションは「知る」という方法で家族の幸せを阻むバリアを取り除く試みだ。
 それは家族に向かうだけでなく、家族を囲むコミュニティにも向けられる。

 この人にもし

 一人目で苦労して産んだ子はつい大切に育てすぎてしまうこと
 子どもは手をかけたら手をかけるだけ手がかかるようになってしまうこと
 大切に育てすぎると、本人が集団に適応するときに苦労すること
 生来、あるいはそれまでの人生の結果で、同じ母親でも子育てが得意な人と苦手な人がいるということ
 母親だけが子育てをしなくてもいい、たくさんの人の手を借りて子育てしてもいいのだということ

 などを事前に教えてあげられていたら。

 幼稚園の先生は、いつも子どもを善く育てたいと考えている。
 だから、親にしっかりがんばってほしいと思ってしまう。
 けっして親を苦しめようなんて思っていない。

 だから、
 その何気ない言葉が、親を追いつめることもある。
 親は、正しい指摘よりもまず、寄り添う支援を必要としている。

 と事前に伝えてあげられていたら。

 もしかして
この悲劇を防げたのではないか。
なんて思ってしまった。

もちろん
現実はいろいろなことが絡み合って存在するから
そんな単純なことではないかもしれない。

 だけど
 問題は、なにか起きた後に元に戻すことはすごく大変だから、
 問題が起きる前に、事前に「知っておく」ことで
 もっと言えば、成人教育的な手法で「体感してわかっておく」ことで
 それを未然に防ぐ。

 それがファミリーライフエデュケーションの考え方。

 だから、
こういう例を目にすると、私の中の永遠に癒されない哀しみがうずく。
ファミリーライフエデュケーターとしてがんばれば、なんとかできるんじゃないかと思ってしまう。

 つくづくおせっかいだし、そもそも、傲慢だよなあ、私は。
 まだ、自分になにかできるんじゃないかって信じている。





 
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「ティール組織」 を 読んでいるんだけど
2018年12月27日 (木) | 編集 |
ティール組織を読んでいるんだけど

のっけから既視感満載

たとえばこれ

「彼らはまるで、昔のテレビ・シリーズに出てきたような親しみやすい宇宙人のようだった。かなり長い年月にわたって人々の生活に溶け込み、超能力を備えているのだが、他の人々からはそのことを認知されていないのである。」


2003年から2008年まで北海道を中心に日本中の子育て支援の団体を訪ねていた頃、家族支援学を知らないまま家族支援学のセオリー通りの支援をしている人たちは、みんな、まさにこんな感じだった!

それからここ

「殻を打ち破って新しいことに挑戦しようとする者はたいてい抵抗にあうだろう。「あいつは理想主義者だ」あるいは「ばかだ」と呼ばれるのだ。」

私の挑戦なんて安全地帯でのささやかなものだけれど、
でもやっぱり
ほんとにあの頃
言っていることをわかってもらえることが少なくて
まあ今もなんだけど
苦笑いに何度出会った(今も出会う)ことか!

そして極め付け

ここ

「判断から解放された共有スペースを作り、相手の話にとことん耳を傾けることによって、他の人々が自分の声や真実を見つけられる手助けをする。もちろんそれはお互い様である。」

これって私がトークショップと名付けて実践していたしゃべり場のスタイルそのもの
あのころもいまも、ファシリテーターが声を出す機会が少なければ少ないほど成功っていうのはそう言うことなんだよな

まだ三分の一しか読んでいないけど
私たちは早かったよねーと自慢したい気持ちが抑えきれずに投稿w

「すごい」があるから不幸になる
2017年08月10日 (木) | 編集 |
 弟が兄に、誕生日プレゼントを買ってきた。

 小説好きの彼のために、40分かけて一冊の文庫本を選んだという。

「本屋に売っている本でさ、最後まで読みたいなあって感じる小説が少なくてびっくりしたわ」
 そう語る彼が最終的に買ってきたのは、インターネットで公開された後、文庫化されたという「三日間の幸福」(著・三秋縋)という小説。

 しかし、次の朝、せっかくプレゼントされたその本は、兄によって食卓に放置されていた。
 一緒に朝食をとった時、弟はそれをちらっと見たが、何もコメントしなかった。
「なんだよお兄ちゃん、せっかくプレゼントしたのに」
 と心の中で思ったが口に出さなかった。わけではない。

 親だから、彼のことはよくわかる。
 彼は、自分が40分かけて選んだプレゼントが放置されていても、全く、一切、気にもとめていないのである。
 そういうところが大物だなあといつも思う。
 さすが、
「勉強も運動も出来ないお前の長所はいったいなんだ」
 と私に問われ、
「うーん……まあ、優しさ(人への許容範囲というような意味で使っていた)では、負ける気がしない」
 と答えを絞り出しただけの男だ。

 そういうわけで、私の目の前に転がる文庫本。
「40分かけて選び抜かれた小説ってどんなものなんだろう」と、私はなんとなく「三日間の幸福」を手にとって、パラパラと読み始めた。

 そして気がついたら、一気に読み終わってしまっていた。

 弟よ、君の見立ては正しかったよ。
 面白かった。
 久しぶりに「食べ終わった」と思った。
(私は面白い本を読み終わった時、読み終わったというより食べ終わったと感じる。)

 そして、刺激されて、私も前から思っていたことを記録しておこうと、こうしてコンピューターに向かっている。

 話の概要は書かない。
 そんな野暮なことはできない。

 小説を知りたければ、ちゃんと読まなければいけない。
 あらすじで小説を語ることなんてできない。
(余談ですが、だからほんとは、教員として国語の授業で小説を扱うのもとても苦痛。小説は、ただまとまりとしてボンと人の前に出されるべきだと思うから。小説を授業することは、私には作品を切り刻んでいる感じがするんです。)

 話を戻そう。

 小説の概要は書かないけれど、私が小説によって思い出した、普段から考えていたことを書こうと思う。
 


 昔から、なんで欧米系の外国人は、自分の人生を価値あるものと思っていて、自分は自分として存在していることに充分満足している、というような雰囲気を醸し出しているんだろうと思っていた。

 そしたら、こないだどこかで面白い調査結果を知ってなるほどと思った。
 欧米では、メディアの情報に対する依存が1〜2割程度で、日本はメディアの情報を鵜呑みにする傾向が7〜8割にも及ぶと言う。
 つまり、日本人にとって、「メディアで報じられること」の大きさが、欧米人よりとてつもなく大きいのだ。

 そうなると、日本人は、欧米人に比べて、メディアで「こんな人がすごい」「こんな人もいる」と連日報じられることを大きく受け止めるので、「報じられない自分」はあまり価値がないと思わされてしまうんじゃないだろうか。

 だから、なんとなく自分の人生を愛して生きている欧米人に比べて、日本人は、自分の人生なんて大したことないと思って暮らしているんじゃないだろうか。そう理解したのだ。

 いや、一般論で言うのはやめよう。
 もう確実に、私自身がそうなんです。

 メディアで、いろんな分野のいろんな素晴らしい活躍をしている人を見るたび、
 私って、なんてダメなんだろうって思う。

 それで不幸になる。

 だけど、冷静になると、なんでいつも私は自分が「まだダメだ」「まだ足りない」とばかり思うんだろう、と思う。
 愛する家族も、そこそこのお金も、やりがいある仕事も、素晴らしい仲間も、全部あるのに、
 著名になるだけの何事かを成していない自分は、ダメな人間だと思っている。
 どんだけ欲深いんだ、とますます自分が嫌になる。

 全てはメディアと私の中の日本人的メディア感度のせいだ。

 ああもう、誰かを「すごい」って言ったり、誰かを「素晴らしい」って言ったりするのをやめてくれメディア。

 そしたら、私だけじゃなく、日本人の多くは確実に幸せになるんじゃないか?
 へたしたら、鬱だって半減するかもしれない。

 ささやかな人生を、胸を張って生きられるようにしてくれメディア。

 まてまて。
 メディアのせいだけにするな。
 破れ鍋に綴じ蓋。
 それを大いに受け入れる日本人の習性も、私自身の感じ方も治っていかなくちゃ。
 
 実際、若い世代は私よりずっと地に足つけて、「すごい」報道に惑わされずに、ちゃんと地道に、けれど自信を持って生きている(気がする)。

「すごい」人を否定するわけじゃない。
「すごい」人はもちろんすごい。心から尊敬する。眩しいと思う。

 だけどそれは運命的な要素も多い、いろいろな条件が重なった結果に過ぎない。
 ほんの少しの違いで、あるいは、いろいろな条件に恵まれず、あるいは、あえて「すごく」なることを望まず、「すごくない」人生を送る人の方がきっと圧倒的に多い。

 そして恐ろしいことに、「すごい」人だから幸福が約束されているわけではなく、むしろ、「すごく」なってしまったことで逆に不幸になってしまう、というケースもある。
 また、「すごい」人たちの多くが、「すごい」状態でいることと幸福でいることに相関性はないと、くりかえしくりかえし証言してくれている。

 それなのに、私たちは(私は?)「すごい」ことは幸福に直結していて「すごくない」ことは不幸に繋がるんじゃないかと恐れている。

 卑近な例を挙げれば、もっとわかってもらえるだろうか。

 たとえば、
 小・中学生が成績がすごく良くて、お受験で有名校に進学したら「すごい」。
 勉強も運動も出来が悪くて地元で進学すれば「すごくない」。

 親は、もちろん前者の方が気分がいい。

 でも、なんで?

 親の願いはなにより子どもの幸福のはずだ。 
 そして、前述した通り、成功した多くの大人たちが「すごい」ことと幸福に相関関係はないと伝えているのに。

 誤解しないでほしいのは「すごい」を否定しているのではないということ。
「すごい」はあっていい。
 でも、それ以上でもそれ以下でもない、ただそれとして存在すればいいんじゃないのかな。 

「すごい」が必要以上の価値を持たなければ、「すごくない」と同等の価値であれば、
 あらゆることが、あらゆる人が、ハッピーになれる気がしてる。

 大人も、子どもも。

 





 




だまされるな!
2017年07月15日 (土) | 編集 |
 待機児童を解消することが、保育園を増設することが、完全な善のように言われている。

 ほんとうか?

 私はかつて、

このかけがえのない乳幼児期の子どもの姿を、一分一秒でも長く見ていたい

 という理由で、在宅で、育児をすることを選んだ。
 いっしょに子育てしている公立幼稚園ママたちも、かなり経済的に苦しい中で、保育園に預けず、自分で子育てする方を選んでいた。
 
 誤解しないでほしい。

 子どものために、親が自分の手元で子育てするべき。

 だなんて、これっぽっちも思っていない。

 子どもはどこで育ったっていい。
 私の場合に限って言えば、私が育てるより、保育園に育ててもらったほうが、よく育っただろうとも思う。

 私は、親側の希望で、子どもを保育園に預けず、自分の手元で育てたのだ。
 こんな可愛い子の子育てを、他の人(保育士)に譲るわけにはいかない!と思ったのだ。

 こんだけ、待機児童解消=保育園増設って言われると、保育園に預けて母親が働く。という選択肢だけが存在するように錯覚するけど、

 自分で育てるっていう選択肢もあるよね?

 そういう人が増えれば、待機児童解消じゃなくて、待機児童自体が減る。
 そもそも、保育園で子どもを育てるより、各自が家で育てる方が、社会的コストはかからないんだから。

 保育園を作るのは、母親のためっていうニュアンスで語られるけど、私は、女性を働かせて、実は労働者不足を補いたいだけなんじゃないかって疑ってる。

 そんで、母親たちもなんだか「働かなきゃ」とか「今の生活を維持しなきゃ」っていうのに囚われてしまっていないかと余計な心配している。

 いろいろな事情があるから、もちろん、保育園に育ててもらう方を選ぶことだって、全然否定しない。

 でも、待機児童解消の目的が、もしも私が疑っているような労働力確保じゃなくて、母親(家族)の希望を叶えることだというのなら、もう一度、その希望が本当に自分たちの希望なのかを問いなおすところから始めてほしい。

 あの可愛い時期に、一緒にいなくてもいいのか? 
 たった数年間で泡と消えてしまう、あの可愛らしい時期を、貧乏しても、一緒に過ごさなくてもいいのか?

 しつこいようだけど、保育園を選ぶ人を否定しているわけではないです。
 それは、親の生き方だから。
 ただ、世間の雰囲気に流されず、自分の方法を、しっかり見極めてほしいだけ。

 そして、ここが大事なんだけど、在宅の育児を選んだ人たちにレスパイトケアを用意してほしい。もしも、週に1回育児をお休みできたら、在宅の育児を選ぶ人は増えるんじゃないか、育児不安がだいぶ解消されるんじゃないか、少子化にも効果あるんじゃないか。

 働いている人のための保育園運営の社会的コストを考えれば、今、社会的要請である子産み子育てをしている在宅の人にも、それくらい社会的費用をかけてくれたっていいと思う。

 って、15年前から言っているんだけどなあ。

 




 
生きにくさ、生きづらさの正体
2017年07月01日 (土) | 編集 |
 生きにくい世の中になった。

 と、あっちこっちで大人たちが嘆くから、そうなのかなと考えてみたら、

 私の場合は、いまだかって、生きやすかったことなんてなかったことに気づいた。
 そしてそれは、
 私がマイノリティだからなんだな、と思ったんだけど。

 もっと良く考えたら、
 マイノリティであると、
 基本的には、自分を隠して世間に合わせて行く必要があって、
 それが、生きにくさ、生きづらさの原因だってところに行き着いた。

 こう書くと
「じゃあ、世間なんて気にせずに、自分を出して生きればいいじゃない」
 って言う人がいる。

 でも、
 コトはそんなに簡単じゃない。

 もしも私が、自分をすべて素直に、あらいざらい外に出したら、
 とたんに、見えない差別とまではいかなくても、確実に「自分とちがう」「この人変わってる」「理解できない」というレッテルを貼られる。
 それって、本人にとっては意外とダメージが大きくて、できれば避けたいと思うから、私は、ほとんど、思っていることを口にしない(それでも、漏れてしまう変人ぶりで、あまり普通の人とは認識されていないようだけれど)。

 とにかく、秘密を抱えて生きることは、単純に、生きにくい。 

 私が自分を外に出さないのは、自分を守るためだけじゃない。
 逆に、私が自分を素直に表現すると、必ず誰かを傷つけるからだ。

 先日もある集まりに行って、うっかり思ったことをそのまま口にしてしまって、その場にいる人を傷つけたし、見ている人をいやな気持ちにさせた。
 私が思っていることは、それを表現するだけで、
 普通の人の普通の考えを、容赦なく破壊してしまう。
 せっかくみんなで作り上げた場を、壊してしまう。

 だから、人の集まるところでは、なるべく発言しないようにしようって誓うのに、いつも、
 黙っていられずに思いを口にしてしまう。
 ただ、その先が知りたい、私の考えを言って、それをもっと先に進めてほしいと思うのに、
 私の思いは、たいていの人の考えとはかけ離れた場所にあるようで、扱いかねてみんなを困らせてしまう。
 
 毎回そんな感じのくりかえしだから、後悔して、もう、そもそも外には出ないと誓うのに

 学びたくて、
 またつい出かけてしまう。

 私の正体は、
 まるで、尖った針を四方八方に飛び出させている球体のようなものだ。
 それをそのままにしておくと、必ず誰かを傷つける。
 だから、それを隠して、もう一つ大きな柔らかい球を、その針の外側に必死になって作っている。

 だけど、針たちはいつもいつも外に出たがっていて、だから、油断すると、すぐにそれは現れる。
 
 ただ、世の中はよくできたもので
 ほんのわずかに、私の本当の針だらけの球をおもしろがってくれる人がいる。大好きだと言ってくれる人がいる。
大好きってわけじゃないけど、そのまんまでいいよって受け入れてくれる人がいる。

その人と
その仲間達と
一緒にいる時だけは
 安心して、尖った醜い球の自分をさらけ出せる。

 だから、生きていけるんだな。
 






 



 

 



予言(AI=人工知能の話)
2017年05月06日 (土) | 編集 |
 うん十年後は世の中をAI(人工知能)が席巻して、たくさんの仕事がなくなるって、インテリたちが騒いでる。

 でも、いまだかつて、大人たちの言う通りになったことなんてあったっけ。

 私は、子どもや若者は、きっと、大人たちを嘲笑うかのように、予想もつかない展開をしてくれるんじゃないのかなって、かなり期待している。

 AI(人工知能)云々の話はさ、そもそも、経済性とか生産性がよいことが望まれるっていう前提のもとに成り立つ話だと思うんだよね。

 より速く、より正確に。

 でも、そうではなくて、非経済的で非生産的だけど、そっちの方がいいっていう価値観が現れたら、この図式は崩れる。

 たとえば、

 自動改札より、駅員さんの切符切りのほうがお洒落ってなったら、その仕事が生まれるわけじゃん。
 その人件費を交通費にのせても、そっちの方が可愛いってなったら、それが人気出て、経済は成り立つわけでしょう?

 私はひそかにこの展開を期待している。

 そんでもって、そうなった将来のために、いまから、めんどくさい手仕事の技を身につけようと画策をしているのだ。

 若者たちが
「手仕事いいじゃん」
「めんどくさいほうがいいじゃん」
「手作りっぽい不安定な仕上がりの方がいいじゃん」
 って言い出した時に
「できるよ」
「これどう?」
 って言えるばあちゃんになりたいわけよ。




幸せについて
2017年04月24日 (月) | 編集 |
 誰かを幸せにしたいから、この仕事をしてる。

 っていうと、
 よく
「でも、幸せって人によっていろいろじゃない?」
 「幸せの定義って何?」
 って言われる。

 表面的には、
「そうですよね」
 って話を合わせるけど

 心の中では、
 無条件でムカッと来てる。

 なんでそう難しく考えるかなあ。

 幸せ
 
 なんてそもそも言葉でさえ表せない
 実体のないゆらゆらしたイメージ
 それでいいじゃん。

 それをなんか、あーだこーだゆってどうするよー

 って思ってる。

 いや思ってた。
 
 っていうのはさ、最近幸せを説明する方法を見つけたんだ。

 仕事からの帰り道
 よく見る風景
 出会うたび
 胸がキュンとする。

 ああこれが幸せだよなあ
 と思う。

 それは、

 夜の石神井公園
 区民野球場
 ナイター
 昔野球少年だった男達が、
 ナイトゲームに興じている様子

 どこにでもいる
 どこにでもある仕事を多分している
 普通の人たち
 
 お揃いのユニフォーム
 応援している妻達

 男達が
 おなかのそこから笑いながら
 仲間たちとプレーをしている
 
 ああいいなあ
 と思う、 

 私がイメージする幸せってこれだよ、これなんだよ。
 って思う。

 

 



 
一生、後悔し続けるだろう。
2016年08月16日 (火) | 編集 |
 異国を旅していたときのこと
 
 大都市の駅の階段をすぐ下りたところ
 ゴミゴミした町の中
 すぐ横には大通りがあって
 歩道にはたくさんの人が行き交っている

 そんな場所で

 その女の人は
 五歳ぐらいのとても細い足の男の子を抱えて
 道端に座り
 マクドナルドのジュースの空き容器を
 高く頭上に掲げていた

 物乞いだ

 私は
 なにがしかをその容器に入れたかった

 だけど
 現地の人は
 当たり前のように
 その女性の前を通り過ぎる
 誰も見向きもしない

 旅行者の私が
 彼らがしていないことを
 してもいいのだろうか

 どのくらい
 入れるのが
 正しいのだろうか

 まごまごと
 お財布を出しているのを
 見られるのは恥ずかしい

 そんなことを一瞬で思いめぐらしていたら

 私はその女性の前を
 何もせず
 通り過ぎてしまった

 

 次の日

 現地のツアーに参加した

 ガイドさんに連れられて歩いていたら
 また違う場所で
 違う物乞いにあった
 
 ガイドさんは
 当たり前に小さな額の紙幣をポケットから取り出し
 さりげなくその人の容器に入れた

 ああ
 それでよかったのか

 なんで
 昨日
 できなかったんだろう

 後で聞いたら
 ガイドさんは地方の出身で
 小さい頃はとても貧しかったのだという
 
 日本語も英語も話せる人だから
 多分、今は高給をとれているのだろう

 だけど
 貧しかった彼にとって
 物乞いの人は
 施す相手と言うより
 助け合うべき仲間

 そんなふうに思えるような
 さりげなさだった

 私が
 昨日
 あんなふうにさりげなくできなかったのは
 きっと
 そんなふうに考えることができなかったからじゃないのかな
 
 同じ人間なんだから
 気軽に分け合えばいい

 そんなふうに単純に考えることができなくなっている
 不自由な心をもっていたんだな

 それで
 一生悔やんでも悔やみきれない
 ミスを犯した

 わたしは
 あの女性に
 いくらか渡したかった

 けれど
 何もできなかった
 
 いつも
 誰かの役に立ちたいと
 切望しているのに

 どうして
 なにもしなかったのか

 きれいなホテルに泊まって
 おいしいレストランで食事をして
 飛行機に乗って帰ってきた私

 どうして
 いくらかでも
 彼女に渡さなかったのか 

 もう二度と
 彼女には
 会えないだろう

 一生チリチリと痛む小さな傷が
 また 
 もうひとつ増えた

 


 
 

 


「頭」の人がいっぱい
2016年08月06日 (土) | 編集 |
最近の世の中には
「頭」が多すぎやしませんか

世の中を一つの体に例えると

頭のしごと、手のしごと、足のしごと とかがあると 私は思っていて

中でも 最近は

コンピューターやらなんやらができたせいもあって

それにきっと、みんなが「頭」のしごとはカッコいいし実入りもいいと思っているから

「頭」のしごとを好んでしまう

それでもう どんどん
「頭」のしごとばっかり いっぱいふえつつある気がするんだけど

でも

これがなんでかわからないけど

人として魅力的なのは、「手」や「足」のしごとの人っていう実感がある

偏見とか
身びいきとか

そういうのホント抜きにして
それから「頭」にも例外があるのかもしれないけど

「頭」のしごとのひとの話やふるまいは、ちょっと聞くだけだと
「おおなるほど」「すごいなあ」って思うんだけど

しばらくすると、あれ、「それほどのことか?」って思っちゃう
それになんかスケールがちっちゃいんだよね

でも
「頭」じゃない人が
狙わずに放ったひとことや、することなすことは、すんげえダイナミックで面白かったりする

そんで、

実は、

きっと広く言ったら「頭」のひとりな私は、

もしかして「頭」じゃない人の野放図なふるまいを、本人そっちのけで勝手に深く理解したりして、面白がったりしてるんだろうな

だせえな







泡沫の日々を愛そうと思う
2016年04月24日 (日) | 編集 |
今までの人生を振り返って、
三十代の人達が活躍しているのを見て、
「なんで三十代のとき、もっと頑張らなかったんだろう。もう時間なくなっちゃったじゃん、私」
って、ここんとこずっと思ってたんだけど、

小さい頃、
学校から帰ってきても、
仕事をしている作家の母に話しかけちゃいけない
っていう暮らし方をしていて、

自分が母になったら、
それを繰り返さないで、子育てをどっぷりやるんだ
って決意して実践してたこと、思い出して納得した。

泡沫みたいに消えてしまう日々を、
私は大量に過ごしてきたんだから、
三十代でひとかどのことを残せなくても仕方なかったのだ。

結局、「母」をやるだけでは飽き足らず、
周りの人達に助けられながら、
家族支援学を学んでファミリーライフエデュケーターの資格を取得できたんだから、それだけで良しとしよう。

それ以外は、

おそろしい数のリンゴを剥いたり、
来る日も来る日もお芋を揚げたり、
幼子の手を引いて出かけたり、
そんなことばかりしてきた。

パンを焼いて、
ジャムを作って、
セーターを編んで、
味噌を仕込んで、
手作りの暮らしにも、時間がかかった。

それらは、何か実績が残るもんじゃない。
日々の当たり前の暮らし。
泡沫のように消えてしまう、だけど大切だった日々。

私はサボっていたわけじゃなかったんだ。
かけがえのない時間を過ごしていたんだ。




……こうして自分の人生に納得していくのが、
歳を取るっていうことなのかもね。