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日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
最終回 私が家庭支援をする理由
2014年05月18日 (日) | 編集 |

 1989年。
 忘れられない事件が起きました.東京で、4人の少年が女子高生を騙して監禁、暴行し、姉妹にはコンクリート詰にして海に投げ捨てた「女子高生コンクリート殺人事件」です。

 当時、この事件に衝撃を受けた私は、

「こんなことが二度と繰り返されないために、自分にできることはないか?」

 と考えずにはいられませんでした。

 二十五歳の頃です。

 そして同じ頃、私は、知的障害を持つ人とその家族と出会います。

 重い知恵遅れ、ダウン症、自閉症…。そういった障害を持つ人の存在が教えてくれる「目に見えないたいせつなこと」の大きさと、根強い差別や日本的家族主義、あるいは社会システムが、病児、障害児の家族だけをしんどい状況に追いやるのを目の当たりにして、

「これをなんとかできないだろうか」

 というのも、私の人生の大きなテーマになりました。

 以来十年以上、様々なジャンルの書物を漁り、人の話を聴き、自分で経験をし、私のやるべきことが見えてきました。
 
 ……こんなふうに。

『人は自分が幸せならば、けして人を不幸に陥れたりしない。きっと幸せな人ばかりなら、犯罪も起きないし、しんどい人に目や手が行き届くのでは? じゃあ、どんな人が幸せになる? それは幸せな家庭(またはそれに代わるもの)に育まれた人だ。それなら、私は、家庭が幸せになるお手伝い=家庭支援をすればいい』

 そして、この結論に至った後、カナダ・アメリカでは、すでに様々な家庭支援職が活躍しており、中でも、教育的手法を使って幸せな家族生活のお手伝いをするのは、ファミリーエデュケーターという職種、と知ります。

「これこそ、私のやりたいことだ!」 

 ピンと来た私は、矢も盾もたまらず、三十六歳三児の母しかも英語で勉強というハンデにめげず、資格プログラムの通信教育に挑み、三十九歳で日本初のファミリーライフエデュケーターになり、家庭支援の仕事を始めました。

 知ってラクになることは山ほどあります。

 とくに小さい子のお母さんたち、世間のプレッシャーを敏感に感じすぎたり、間違った情報を鵜呑みにしたりして、まるで見えない縄で自分を縛り付けているようで、私にはいたたまれません。

 また、子育てや障害児・者の現実を知らないがゆえに、他人や家族を傷つけたり、簡単な支援に気づかなかったり、空回りの支援をしてしまったり、ということもあります。

 だから、知ること・学ぶことで、よりラクに、幸せになれる情報を発信していきたい。東神楽町は、私にもう1年そんな場を与えて下さいました(感謝!)。

 来年度は趣向をかえて、子育てのメンタル面ではなく、日々の暮らしの愉しみ方や家事の工夫についてお届けします。

(2007年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載) 
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いじめるのはいじめられているからです
2014年05月10日 (土) | 編集 |
 
「子どもはどうして学校でいじめをすると思いますか?」

 ある講演会で、講師が言いました。

「親にいじめられているからですよ。子どもは、家で親にやられたことを、学校で友達にしているんです」



 ショック!
でも、確かに思い当たる節はあります。

「お母さんの言うとおりにしなさい!」
「もう、あんたなんか知らない!」
「サッサとして!なにやってるの!」

 などなど、言われてみたら、私は普段から、友人などには決して言わない強い口調で、子どもをビシバシ怒鳴りつけています……。

 私のような怒号巻き散らかしタイプでなくても、子どもほったらかしのネグレクト(育児放棄)や「あなたのため」と子どもの人生を管理徹底するのも、やっぱりいじめなのかも。

 私だって怒鳴ったそばから反省はしていますよー.なにしろプロですから、どういうふうに育てれば子どもが善く育つのかなら、ぜーんぶ頭に入っています。

「失敗をとがめないで、子どものありのままを認めると、自己肯定感を育める」とか「待つのが大事」とか……。もうてんこ盛りで知ってる!

 だけど、わかっちゃいるけどできないんです!
 だって、うちの子どもたちときたら、片付けたそばから散らかすし、すぐに遊びを優先するし、朝はなかなか起きないし、頼んだことをすぐ忘れるし……。そしてそれ以前に、私が賢母とは程遠いキャラですしね…。

 だけど、「理想」の子育てを啓蒙する人たちって、リアルに家事と子育てを、たった一人でこなしたことってあるのだろうか。

 現実は、たいてい理想どおりになんかいきません。

 だから、私は言いたいのです。

「親が、子どもをいじめるとしたら、
 それは、
 理想という幻想に、
 それを啓蒙する世間からの暗黙のプレッシャーに、
 親が、いじめられているからです」

 私が仕事をする原動力は、この状態をどうにかしたいという抑えがたい衝動です。
 どうしてもお節介が止まらない。
 なんとか、お母さんたちが自分で自分を縛ってしまった、見えない縄をほどきたい。
 病気、障害を持つ子を含む子育ての重荷と歓びを、
 地域みんなで分け合うことが、どうすれば可能なのかを知りたい。

 そう思って仕事に夢中になればなるほど、
 自分の家庭のことはお留守になっていく…。ハハハ(-_-;)

(2007年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)(一部加筆修正)
 
 
 
 


児童虐待
2014年05月04日 (日) | 編集 |


 ここのところ、仕事の関係で児童虐待について調べる日々が続いています。

資料によると、すでにもう何十年も前から、児童虐待(育児放棄を含む)のメカニズムは明らかにされています。

それなのに、いまだ「同じこと」が繰り返されている状況を知り、暗澹たる気持ちになってしまいました。

 「同じこと」をしているのは虐待する親ばかりではありません。
「虐待するなんてとんでもない親(なぜか特に母親は風当たりが強い)だ」というマスコミの論調と、それに同調して眉をひそめる一般の反応も、いまだ飽きずに繰り返されていることなのです。

虐待死した子どもたちにはみんな、心を込めた、可愛らしい名前がついています。
生まれた時にはきっと、虐待の果てに殺してしまうなんて思ってもみなかったのでしょう。

誰もが「子どもを善く育てたい」というのは自然な感情。
それが不幸な道を辿るのは、そうならざるをえない事情があったから。

私の出会うお母さんたちは口を揃えて、子どもが生まれるまで「子育て」がこんなに大変だとは思ってもみなかったといいます。ましてや精神的な傷、貧困、あるいは夫婦の不仲があればなおさらでしょう。
時には虐待という悲しい事態も当然起こりえます。

 そんな時、本来、親(養育者)には助けを求める「権利」がある、と知っていてくれたら…。

 けれど、世間が「虐待なんてあってはいけない」「親として、許されない」という風潮なので、虐待は隠されていきます。

 本当に児童虐待を無くしたかったら、責めるのは逆効果なのに……。

『すべての犯罪、すべての憎しみ、すべての戦争はその原因を探れば不幸に辿り着く』(A・S・ニイル)

 私は、この言葉に出会って以来、子育てしている人が幸せになることこそ、すべての悲しみの予防と考え、こうしてコラムを書かせてもらったり、道内外で講座をさせてもらったりしています。

 だけどその一方で、仕事が増えて毎日がとても忙しくなってしまい、自分の子たちに「ちょっとあっちで静かにして!」なんて怒鳴り散らすし、マンションの同じ階に住む乳幼児3人を抱えたお母さんをもっと応援したいのに、顔を合わせたとき声をかけるくらいしか出来ないでいます。

 なんだか、これっていびつだと思いませんか。

 本当は、自分の周り、自分のご近所で、ささやかな支援を細く長く続けることが、何よりも尊いことだと思います。
 私は、児童虐待を防ぐ力を一番持っているのは、プロの支援者や児童相談所ではなく、『親切なご近所さん』ではないかと、最近考え始めています。

(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)
自分の子育ては見えません
2014年05月03日 (土) | 編集 |


 きっかけは、長女の言葉でした。

予定通りに勉強が進まない様子を、いつものように厳しくののしる私に、とうとう彼女は、涙ながらに訴えたのです。

「そりゃあ私、見かけは中学生かもしれないけどさあ、まだ中身は子どもなんだもん。『中学生なんだから!』って怒られてばっかりでさー、もう嫌になっちゃうよー」

 カナダの家庭支援の原則は、
「長所に注目する」
「持っているものを活かす」
「地域全体で支える」

 北海道内はもとより、道外にもこの考えを解説して歩いている私。

 そして出逢う「お母さん」たちにも、
「生きていればいいじゃない」
「気楽にやろうよ」
「完璧な親なんていない」
 と笑顔を振り撒いているのに。

 気がついたら、自分の子どもには、ギリギリギリギリ締め付けていたのです。

「お前にはこういうところが足りないの!」
「ちゃんとしなさい!いつも頭使って」
「同じこと何度も言わせないでョ!!」

 ふう…。こうして普段の言動を思い返せば、カナダの理念や「お母さん」達へのアドバイスとは正反対の、家の中の私が見えてきます。

 ……今、私はやっとわかりました。

 なぜ、私がカナダの考え方にこんなにも惹かれ、なぜ、それを一生懸命伝え続けているのかが……。私が、それをほんとうに伝えたかったのは、実は、他ならぬ私自身だったんですね……。

 なんでも計画通りに行かないと気がすまないところのある私。そのくせ何かに集中すると他の事が手につかなくなり、結果的にはほころびだらけの私の子育て。

 そして、それをいつも後悔しては繰り返す……。
 完璧が好きで、だから自分も子どもも、そして他の人や他の子どもも、ついアラ探しして直そうとしてしまう私……。
 
 私にこそ、

「生きていればいいじゃない」
「気楽にやろうよ」
「完璧な親なんていない」

というアドバイスが、一番必要だったのです!

 私の愛読書「問題の子ども」(A・S・ニイル著、黎明書房)にこうあります。

「大人たちは『完全になりたい』という自分自身の願いを『他の人を向上させよう』という願望に置き換えてしまう」。

 何度も読んだ文章なのに、まったくその通りと思っていたのに、それが自分のことだとちっとも気づかなかったとは!

 人間、自分のことは本当に見えないものですね。

(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)
夫の協力度は同じ。違うのは……?
2014年04月29日 (火) | 編集 |
A子さんとB子さんは、どちらも赤ちゃんが生まれたばかり。二人とも、仕事をやめ、初めての子育てに奮闘中です。

 夫は揃って忙しく、なかなか子育てに協力してもらえません。

 たまーに、お風呂に入れてもらうのがせいぜいで、普段はまったくあてに出来ません。たまの休みも、突然のトラブルで呼び出されたり、冠婚葬祭が入ったり……。せっかく家族が増えたのに、悲しくなってしまう状況です。
 
それでもA子さんは、夫の状況を理解しようと努め、
「仕方がないよね」
 と笑います。

 一方B子さんは、いつも帰宅した夫と責めあいになってしまい、
「もう限界!」
 と、追いつめられた気分です。

 この違いは、いったいどこから来るのでしょう。

 A子さんが優しくて、B子さんがわがままだから?

 A子さんは、小さい頃から子守りをしていて、子育てに慣れているけど、B子さんは、大人とばかり過ごしていて、元々子どもが苦手だから?

 ……正解は、実は本人の資質の違いではなく、夫のかけてくれる言葉の違いなのです。

 A子さんの夫は、
「いつもありがとう、手伝えなくてごめんね」
 といい、B子さんの夫は、
「子育ては母親の仕事だろ、俺忙しいから任せるよ」
 という。A子さんの夫は、
「お風呂入れて、着換えさせて寝せておくから、ゆっくりしていていいよ」
 といい、B子さんの夫は、
「わかったよ、風呂いれるから、呼んだらバスタオルもってすぐ来いよ」
 という。

 子育ての相談で、深い悩みを抱えているなあ、と感じるお母さんの話をよくよく聴いてみると、結局は、必ずといっていいほど夫婦関係の悩みが芯に隠れています。B子さんの夫タイプを持つ妻が、みんな苦しんでいるのです。逆に、A子さんタイプは、たとえ悩みがあっても、最終的には、夫と二人でなんとか乗り越えていく、そんな印象があります。

 日本の男性は伝統的に口下手で、愛していても、優しい言葉をかけるのが苦手だったりもするのでしょう。子育てがそんなに大変だとは想像できないのかもしれません。

 だけど、男性の皆さん、どうか知ってください。ほんの少しのねぎらいの言葉で、子育て中の妻たちは、とてもとても救われるのだ、ということを……。

(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)
ハハは見栄っ張り?
2014年04月27日 (日) | 編集 |
 6、7月は何度も東神楽町にお招きいただき、たくさんの素敵な「お母さん」達に出逢うことが出来ました。この場を借りて厚くお礼申し上げます。

 今回の講座はいずれも「トークショップ」。

ひとりひとり顔が違うように、親も子もひとりひとり違う。だから、一方通行の講演会スタイルでは、その個々に応じた支援を届けるのが難しい。

 その点、子育てについて、みんなでワイワイおしゃべりしながら学ぶこの講座では、双方向のコミュニケーションによってオーダーメードの支援を目指すことが出来ます。参加してくださった皆さんが、「ラクになった」「ホッとした」と言って帰ってくださることを目指して、頑張ったつもりですが、いかがだったでしょうか。

 ところで、東神楽に限らず、いろんな町で「お母さん」達と講座をしていて、いつも感じることがあります。

 それは、
「みんな、ずいぶん高度なことを子どもに求めているんだなあ」
ということです。

まだ、生まれてたった数年しかたっていないのに、完璧な子どもでないと、心配でしょうがないみたい。だけど、たった数年で完成した人間であれ、なんてそんなの無茶に決まっています。

それに、そんな小さいうちから人間が完成してしまっては、つまらないじゃありませんか。

にもかかわらず、お母さんたちは完璧な子育てを目指してしまう。

それはきっと、お母さんを不安にさせる情報が世の中には溢れているからなのでしょう。

子育て支援といいながら、支援ではなく「こうしなくてはダメ」「こうしたほうがいい」「こういう子が望ましい」という暗黙の強制が、お母さんたちを縛っているのではないかなあ。

そしてその子育ての完成形、理想形はいつでもどこでも、決まって

『明るくて活発で、友達に優しくて、勉強もスポーツも得意な子』。

「どうぞご安心を。そんな完璧な子どもなんていません!」

 と、言いたいところですが、ごくたまーに、そんな理想どおりの子どもがいるから驚きです。

 しかし残念ながら、自分の子がそうである可能性は、非常に少ない……(笑)。

 なのに、これがなかなか諦めきれないんだよねえ。かくいう私だって『勉強なんて出来なくていい』って頭でわかっているのに、「お嬢さん勉強できるのねえ」なーんて言われたくて、見栄はりたくて、中1の長女を塾に行かせようかな、なんて思っている今日この頃なのですから。

 そうか、みんな私と同じ、「完璧な子ども」の母になりたい見栄っ張りなのかも。
 
(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)
逆向き子育てのススメ
2014年04月26日 (土) | 編集 |
 たとえば、

「いいかげん、オムツが取れてほしいんだけど……」
「母乳をそろそろ止めたいんだけど……」
「何とか泣かずに幼稚園に行ってほしいんだけど……」

 などという相談を持ちかけられたとき、私は「逆向き子育て」を試してもらいます。

 「逆向き子育て」とは、つまり、

オムツを取りたい→絶対取らない
母乳を止めたい→いつまでも飲ませる
泣かないで登園させたい→泣いてもいいし休んでもいい

 と、子どもに逆さまのアプローチをする方法です。これは上っ面だけではダメで、親自身が、心からそう思うことが必要です。

 まあ、モノには限度というものがありますから、母乳の相談が小学校高学年のお母さんのものなら、このやり方は薦めません。また、仕事や介護などがあれば、子どもがいくら泣いても「園を休んでいい」というわけには行かないでしょう。

 というわけで、万人に当てはまるとは限りませんが、事情の許す範囲で一度試してみる価値はあります。このやり方は、かなり効果的ですから。

 たぶん、それはこういう理屈。

 ほら、できものや傷、皮膚炎などができたとき、気になっていろいろ治療したりしてもなかなか直らないことってありますよね。でも、

「まあいいや、こんなもん気にせずに暮らそう」

 と開き直って、そのことを忘れるくらい他のことに打ち込んで過ごすうちに、気がついたら、いつのまにか、すっかり治っていた……そんな経験はありませんか?

 これと同じで、不思議なことに、心配事を気にせずむしろ受け入れてしまうと、それが自然消滅してしまう、ということが、子育てにもよくあるのです。

 かくいう私も、実は長男(小4)に、
「せっかく柔道頑張っているんだから、毎大会メダルを取れ!」
と、いつもハッパをかけていたのですが、ふとある日、自分の眉間の皺に気づいて、

「メダルがなんだ。まだ小学生なんだから勝ったり負けたりでいいんだ!」
 と、すっきりさっぱり気持ちを切り替えました。

 すると、なんと長男は、前より晴れ晴れとした顔で、一層熱心に練習するようになったのです。ホントよ!
 
 そこで、長女(中1)にも、
「勉強なんてしなくていいよ!」
 と言ってみたら、こちらの方は、本当にぜんぜん勉強しなくなってしまい……(笑)。あれ、おかしいな?

 子育ては、一筋縄ではいきません。


(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)
初心者マークさえないのに!
2014年03月31日 (月) | 編集 |
 自動車を運転するためには免許がいります。けれど、親になるのに免許は不要。ただ、子どもを産むか引き取るか、それだけで「親」と呼ばれます。これを自動車の運転にたとえれば、初心者マークどころか、実技や筆記も学ばずに、車を買っていきなり運転をするようなもの。
数十年前なら、誰もが子どもの頃、子守りをしたり、言い継がれる知恵を耳にしたりして、子育ての方法を、知らず知らずに身につけていたのかもしれません。
しかし、今の「親」たちは、子ども時代のほとんどを学校で過ごしてきました。しかも、大家族から核家族に、縁側のある家からマンションに、などの変化が、子育てを、町じゅうの仕事から、親だけの孤独な仕事に変えてしまっています。
代わりに、現代には情報やサービスが溢れているじゃない?という意見もあるでしょう。けれど、「新生児に母乳をあげるときは、腕の下にクッションを入れるとラク」とか「きょうだいげんかは、親がジャッジ(どちらが悪いと決める)をしないとうまく収まる」というような、ホントに実用的な助言は、驚くほど少ないのです。
そんな頼りない状況の中で、現代の親たちは子育てに取り組んでいます。
それなのに、世間の人たちは、彼らの子育てが下手だったり、まちがったりするとすぐ、口々に、
「親がしっかりしてない」
「親がちゃんとしないから」
 と批判します。
 確かに、現代のような状況でも見事に子育てをこなしている人がいるから、誰もができるように錯覚してしまうのかもしれません。だけど実際には、上手くやれる人もいれば、どうしてもやれない人も…ほんとうに、いろんな「親」がいるのです。
しかし世間は通り一遍に、全ての「親」に「いい親」を求めているように思います。切ないことに「親」たちも、その風潮に敏感に反応し、みんなこぞって「いい親」であろうと躍起になっている…。そして「どうしようもない親」を、世間と一緒に批判している…。

誰でも十分「親」をすることができる。もし、支えてくれる人がいるならば。

これは、私が資格を取る際、テキストに載っていた言葉。ああ、再度肝に銘じなくては。

(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)

いま読み返すと、なにを偉そうに書いているんだかという感じですよ。ほんとうにごめんなさい。年を経れば経るほど、なにが真実で何が正しいかなんて確信が持てなくなる。わからなくなるから言えなくなる。今はこんなの書けないなあ。ああ、当時の読者の町民の皆さん、ごめんなさい。(追記再掲)
 
一人目の陥る罠
2014年03月16日 (日) | 編集 |
 私が家庭支援を志したのは25歳のとき。まだ、自分の子どもが生まれる何年も前でした。
 当時、図書館に通ったり、様々な講演会に足を運んだりして、自分なりに子育てを独学していた私は、一人目の子育てでは、つい気負ったり、心配しすぎたりして、過保護・過干渉になりがちだということを、十分知っていました。

 そこで私は、一人目を育てる際に、
「この長女を、まるで次女のように育てよう」
 と、固く心に誓ったのです。あまり心配せず、あまり手をかけず、そして伸び伸びと自由に…。
夫婦でそう相談し、祖父母たちにもそう伝え、初孫を甘やかしがちな彼らに、「もっと放任して」と何度も申し入れました。

 やがて時が過ぎ、二人目、三人目と育ててきて、今思うことは…。
 何のことはありません。そんな゛誓い゛をわざわざ立て、しかも祖父母をも自分のやり方に同調させようとすること自体、気負った子育てをしていたという、紛れもない証拠なのです(笑)。

三人目を育てるにあたっては、「こう育てよう」なんて取り立てて思うことさえなく、祖父母が多少甘やかしても「まあ、いいか」と、鷹揚なもの。それなのに、もしかしたら、一人目、二人目よりもうまく育てられているような気がします。

『子育てとは、子どもに自立する力をつけること。少しずつ少しずつ成長に合わせて、親(またはそれに代わる人)の手を引っ込めていく作業』。

この鉄則を、三人目だと自然体で守れるのに、一人目だと、わかっていても、ついつい、手や口を出してしまいます。私のように、たとえ手や口を出さないと頑張ったとしても、肩の力を抜くのは本当に難しい。

 しかしこれは、考えてみれば当たり前の話。

 なにしろ、親にとって一人目は、初めての子育て、初体験尽くしの毎日なのです。いくつになっても、その年頃の子育ては、初体験であり続けるわけですから、うまくやれるほうがめずらしいに決まっています。

 一人目の子育てに奮闘する皆さん、もし、思い当たることがあっても、悲観することはありません。修正は、今からだってまだまだ間に合うし、子どもの適応力は想像以上です。

 あなたの(私の)子ども(孫)が、きっと、この一人目の運命を、たくましく生き抜くと信じましょう。

 
(2006年 北海道東神楽町 広報誌 に掲載)

いま読み返すと、なにを偉そうに書いているんだかという感じですよ。ほんとうにごめんなさい。年を経れば経るほど、なにが真実で何が正しいかなんて確信が持てなくなる。わからなくなるから言えなくなる。かもしれないかもしれないと思うことをつぶやいたり、こうだってそうだってって聞いたことを伝えたりするのが精いっぱいになってくる。 ああ、当時の読者の町民の皆さん、ごめんなさい。