日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
冒険遊び場が特別な場所である限り
2017年10月01日 (日) | 編集 |
「小学生のときプレーパーク(冒険遊び場)連れてかれるの、やだったー!」という息子の衝撃発言から、冒険遊び場大推進派だった私は、子供と、子供のための大人の活動について、ずっと考えていて、最近見えて来たのは、冒険遊び場が特別な場所である限り、子供にとっては環境ではないんだなあということ。
常設の冒険遊び場であっても、それが子供の意識のなかで自分の周りに普通にあるもの、普通の公園みたいな特別じゃない場所として認識されないと、環境になれないんじゃないかな。
世の中そのものというか、置かれている状況というか、暮らしそのものというか、その中で、子供だけで生きていくのが子供で、それが自然。ワイルドネーチャーという意味の自然ではなく、本性というような意味での。だからコンピュータ溢れる現在に、コンピュータゲームするのは自然。
そりゃ私(大人)は子供には火遊び木登りしてほしい。
けど一方で、子供を子供だけに任せてあげたい。


余談ですが、うちの息子の場合は、任せた結果道端で木の棒振り回して戦いごっこ、どんつきの道路上でカードゲームというワイルドな結果になりましたが、ご近所が鷹揚だったからよかったもののイマドキ顰蹙以外の何者でもない。
(だから少子化なんだよな)


子供のためのイベントってたくさんあるけど、ほっといてあげるのが、いちばん子供のためっていう気がする。

学校だけはさ、大手を振って子供にコミットできる感じがして、それで私は教師の仕事が好きなんだけど、
子供にコミットしたければ、学校は講師料払えないけど、教師じゃない人もボランティアで学校教育の中に入って思う存分やって、子供の学校以外の時間は一切手をつけず、「くまのプーさん」じゃないけど、子供に何もしない時間をあげるっていうのはどうかなあ。

そうすっと、英才教育できないから、
凄い選手とか出なくなっちゃうかなあ。


「すごい」があるから不幸になる
2017年08月10日 (木) | 編集 |
 弟が兄に、誕生日プレゼントを買ってきた。

 小説好きの彼のために、40分かけて一冊の文庫本を選んだという。

「本屋に売っている本でさ、最後まで読みたいなあって感じる小説が少なくてびっくりしたわ」
 そう語る彼が最終的に買ってきたのは、インターネットで公開された後、文庫化されたという「三日間の幸福」(著・三秋縋)という小説。

 しかし、次の朝、せっかくプレゼントされたその本は、兄によって食卓に放置されていた。
 一緒に朝食をとった時、弟はそれをちらっと見たが、何もコメントしなかった。
「なんだよお兄ちゃん、せっかくプレゼントしたのに」
 と心の中で思ったが口に出さなかった。わけではない。

 親だから、彼のことはよくわかる。
 彼は、自分が40分かけて選んだプレゼントが放置されていても、全く、一切、気にもとめていないのである。
 そういうところが大物だなあといつも思う。
 さすが、
「勉強も運動も出来ないお前の長所はいったいなんだ」
 と私に問われ、
「うーん……まあ、優しさ(人への許容範囲というような意味で使っていた)では、負ける気がしない」
 と答えを絞り出しただけの男だ。

 そういうわけで、私の目の前に転がる文庫本。
「40分かけて選び抜かれた小説ってどんなものなんだろう」と、私はなんとなく「三日間の幸福」を手にとって、パラパラと読み始めた。

 そして気がついたら、一気に読み終わってしまっていた。

 弟よ、君の見立ては正しかったよ。
 面白かった。
 久しぶりに「食べ終わった」と思った。
(私は面白い本を読み終わった時、読み終わったというより食べ終わったと感じる。)

 そして、刺激されて、私も前から思っていたことを記録しておこうと、こうしてコンピューターに向かっている。

 話の概要は書かない。
 そんな野暮なことはできない。

 小説を知りたければ、ちゃんと読まなければいけない。
 あらすじで小説を語ることなんてできない。
(余談ですが、だからほんとは、教員として国語の授業で小説を扱うのもとても苦痛。小説は、ただまとまりとしてボンと人の前に出されるべきだと思うから。小説を授業することは、私には作品を切り刻んでいる感じがするんです。)

 話を戻そう。

 小説の概要は書かないけれど、私が小説によって思い出した、普段から考えていたことを書こうと思う。
 


 昔から、なんで欧米系の外国人は、自分の人生を価値あるものと思っていて、自分は自分として存在していることに充分満足している、というような雰囲気を醸し出しているんだろうと思っていた。

 そしたら、こないだどこかで面白い調査結果を知ってなるほどと思った。
 欧米では、メディアの情報に対する依存が1〜2割程度で、日本はメディアの情報を鵜呑みにする傾向が7〜8割にも及ぶと言う。
 つまり、日本人にとって、「メディアで報じられること」の大きさが、欧米人よりとてつもなく大きいのだ。

 そうなると、日本人は、欧米人に比べて、メディアで「こんな人がすごい」「こんな人もいる」と連日報じられることを大きく受け止めるので、「報じられない自分」はあまり価値がないと思わされてしまうんじゃないだろうか。

 だから、なんとなく自分の人生を愛して生きている欧米人に比べて、日本人は、自分の人生なんて大したことないと思って暮らしているんじゃないだろうか。そう理解したのだ。

 いや、一般論で言うのはやめよう。
 もう確実に、私自身がそうなんです。

 メディアで、いろんな分野のいろんな素晴らしい活躍をしている人を見るたび、
 私って、なんてダメなんだろうって思う。

 それで不幸になる。

 だけど、冷静になると、なんでいつも私は自分が「まだダメだ」「まだ足りない」とばかり思うんだろう、と思う。
 愛する家族も、そこそこのお金も、やりがいある仕事も、素晴らしい仲間も、全部あるのに、
 著名になるだけの何事かを成していない自分は、ダメな人間だと思っている。
 どんだけ欲深いんだ、とますます自分が嫌になる。

 全てはメディアと私の中の日本人的メディア感度のせいだ。

 ああもう、誰かを「すごい」って言ったり、誰かを「素晴らしい」って言ったりするのをやめてくれメディア。

 そしたら、私だけじゃなく、日本人の多くは確実に幸せになるんじゃないか?
 へたしたら、鬱だって半減するかもしれない。

 ささやかな人生を、胸を張って生きられるようにしてくれメディア。

 まてまて。
 メディアのせいだけにするな。
 破れ鍋に綴じ蓋。
 それを大いに受け入れる日本人の習性も、私自身の感じ方も治っていかなくちゃ。
 
 実際、若い世代は私よりずっと地に足つけて、「すごい」報道に惑わされずに、ちゃんと地道に、けれど自信を持って生きている(気がする)。

「すごい」人を否定するわけじゃない。
「すごい」人はもちろんすごい。心から尊敬する。眩しいと思う。

 だけどそれは運命的な要素も多い、いろいろな条件が重なった結果に過ぎない。
 ほんの少しの違いで、あるいは、いろいろな条件に恵まれず、あるいは、あえて「すごく」なることを望まず、「すごくない」人生を送る人の方がきっと圧倒的に多い。

 そして恐ろしいことに、「すごい」人だから幸福が約束されているわけではなく、むしろ、「すごく」なってしまったことで逆に不幸になってしまう、というケースもある。
 また、「すごい」人たちの多くが、「すごい」状態でいることと幸福でいることに相関性はないと、くりかえしくりかえし証言してくれている。

 それなのに、私たちは(私は?)「すごい」ことは幸福に直結していて「すごくない」ことは不幸に繋がるんじゃないかと恐れている。

 卑近な例を挙げれば、もっとわかってもらえるだろうか。

 たとえば、
 小・中学生が成績がすごく良くて、お受験で有名校に進学したら「すごい」。
 勉強も運動も出来が悪くて地元で進学すれば「すごくない」。

 親は、もちろん前者の方が気分がいい。

 でも、なんで?

 親の願いはなにより子どもの幸福のはずだ。 
 そして、前述した通り、成功した多くの大人たちが「すごい」ことと幸福に相関関係はないと伝えているのに。

 誤解しないでほしいのは「すごい」を否定しているのではないということ。
「すごい」はあっていい。
 でも、それ以上でもそれ以下でもない、ただそれとして存在すればいいんじゃないのかな。 

「すごい」が必要以上の価値を持たなければ、「すごくない」と同等の価値であれば、
 あらゆることが、あらゆる人が、ハッピーになれる気がしてる。

 大人も、子どもも。

 





 




だまされるな!
2017年07月15日 (土) | 編集 |
 待機児童を解消することが、保育園を増設することが、完全な善のように言われている。

 ほんとうか?

 私はかつて、

このかけがえのない乳幼児期の子どもの姿を、一分一秒でも長く見ていたい

 という理由で、在宅で、育児をすることを選んだ。
 いっしょに子育てしている公立幼稚園ママたちも、かなり経済的に苦しい中で、保育園に預けず、自分で子育てする方を選んでいた。
 
 誤解しないでほしい。

 子どものために、親が自分の手元で子育てするべき。

 だなんて、これっぽっちも思っていない。

 子どもはどこで育ったっていい。
 私の場合に限って言えば、私が育てるより、保育園に育ててもらったほうが、よく育っただろうとも思う。

 私は、親側の希望で、子どもを保育園に預けず、自分の手元で育てたのだ。
 こんな可愛い子の子育てを、他の人(保育士)に譲るわけにはいかない!と思ったのだ。

 こんだけ、待機児童解消=保育園増設って言われると、保育園に預けて母親が働く。という選択肢だけが存在するように錯覚するけど、

 自分で育てるっていう選択肢もあるよね?

 そういう人が増えれば、待機児童解消じゃなくて、待機児童自体が減る。
 そもそも、保育園で子どもを育てるより、各自が家で育てる方が、社会的コストはかからないんだから。

 保育園を作るのは、母親のためっていうニュアンスで語られるけど、私は、女性を働かせて、実は労働者不足を補いたいだけなんじゃないかって疑ってる。

 そんで、母親たちもなんだか「働かなきゃ」とか「今の生活を維持しなきゃ」っていうのに囚われてしまっていないかと余計な心配している。

 いろいろな事情があるから、もちろん、保育園に育ててもらう方を選ぶことだって、全然否定しない。

 でも、待機児童解消の目的が、もしも私が疑っているような労働力確保じゃなくて、母親(家族)の希望を叶えることだというのなら、もう一度、その希望が本当に自分たちの希望なのかを問いなおすところから始めてほしい。

 あの可愛い時期に、一緒にいなくてもいいのか? 
 たった数年間で泡と消えてしまう、あの可愛らしい時期を、貧乏しても、一緒に過ごさなくてもいいのか?

 しつこいようだけど、保育園を選ぶ人を否定しているわけではないです。
 それは、親の生き方だから。
 ただ、世間の雰囲気に流されず、自分の方法を、しっかり見極めてほしいだけ。

 そして、ここが大事なんだけど、在宅の育児を選んだ人たちにレスパイトケアを用意してほしい。もしも、週に1回育児をお休みできたら、在宅の育児を選ぶ人は増えるんじゃないか、育児不安がだいぶ解消されるんじゃないか、少子化にも効果あるんじゃないか。

 働いている人のための保育園運営の社会的コストを考えれば、今、社会的要請である子産み子育てをしている在宅の人にも、それくらい社会的費用をかけてくれたっていいと思う。

 って、15年前から言っているんだけどなあ。

 




 
生きにくさ、生きづらさの正体
2017年07月01日 (土) | 編集 |
 生きにくい世の中になった。

 と、あっちこっちで大人たちが嘆くから、そうなのかなと考えてみたら、

 私の場合は、いまだかって、生きやすかったことなんてなかったことに気づいた。
 そしてそれは、
 私がマイノリティだからなんだな、と思ったんだけど。

 もっと良く考えたら、
 マイノリティであると、
 基本的には、自分を隠して世間に合わせて行く必要があって、
 それが、生きにくさ、生きづらさの原因だってところに行き着いた。

 こう書くと
「じゃあ、世間なんて気にせずに、自分を出して生きればいいじゃない」
 って言う人がいる。

 でも、
 コトはそんなに簡単じゃない。

 もしも私が、自分をすべて素直に、あらいざらい外に出したら、
 とたんに、見えない差別とまではいかなくても、確実に「自分とちがう」「この人変わってる」「理解できない」というレッテルを貼られる。
 それって、本人にとっては意外とダメージが大きくて、できれば避けたいと思うから、私は、ほとんど、思っていることを口にしない(それでも、漏れてしまう変人ぶりで、あまり普通の人とは認識されていないようだけれど)。

 とにかく、秘密を抱えて生きることは、単純に、生きにくい。 

 私が自分を外に出さないのは、自分を守るためだけじゃない。
 逆に、私が自分を素直に表現すると、必ず誰かを傷つけるからだ。

 先日もある集まりに行って、うっかり思ったことをそのまま口にしてしまって、その場にいる人を傷つけたし、見ている人をいやな気持ちにさせた。
 私が思っていることは、それを表現するだけで、
 普通の人の普通の考えを、容赦なく破壊してしまう。
 せっかくみんなで作り上げた場を、壊してしまう。

 だから、人の集まるところでは、なるべく発言しないようにしようって誓うのに、いつも、
 黙っていられずに思いを口にしてしまう。
 ただ、その先が知りたい、私の考えを言って、それをもっと先に進めてほしいと思うのに、
 私の思いは、たいていの人の考えとはかけ離れた場所にあるようで、扱いかねてみんなを困らせてしまう。
 
 毎回そんな感じのくりかえしだから、後悔して、もう、そもそも外には出ないと誓うのに

 学びたくて、
 またつい出かけてしまう。

 私の正体は、
 まるで、尖った針を四方八方に飛び出させている球体のようなものだ。
 それをそのままにしておくと、必ず誰かを傷つける。
 だから、それを隠して、もう一つ大きな柔らかい球を、その針の外側に必死になって作っている。

 だけど、針たちはいつもいつも外に出たがっていて、だから、油断すると、すぐにそれは現れる。
 
 ただ、世の中はよくできたもので
 ほんのわずかに、私の本当の針だらけの球をおもしろがってくれる人がいる。大好きだと言ってくれる人がいる。
大好きってわけじゃないけど、そのまんまでいいよって受け入れてくれる人がいる。

その人と
その仲間達と
一緒にいる時だけは
 安心して、尖った醜い球の自分をさらけ出せる。

 だから、生きていけるんだな。
 






 



 

 



予言(AI=人工知能の話)
2017年05月06日 (土) | 編集 |
 うん十年後は世の中をAI(人工知能)が席巻して、たくさんの仕事がなくなるって、インテリたちが騒いでる。

 でも、いまだかつて、大人たちの言う通りになったことなんてあったっけ。

 私は、子どもや若者は、きっと、大人たちを嘲笑うかのように、予想もつかない展開をしてくれるんじゃないのかなって、かなり期待している。

 AI(人工知能)云々の話はさ、そもそも、経済性とか生産性がよいことが望まれるっていう前提のもとに成り立つ話だと思うんだよね。

 より速く、より正確に。

 でも、そうではなくて、非経済的で非生産的だけど、そっちの方がいいっていう価値観が現れたら、この図式は崩れる。

 たとえば、

 自動改札より、駅員さんの切符切りのほうがお洒落ってなったら、その仕事が生まれるわけじゃん。
 その人件費を交通費にのせても、そっちの方が可愛いってなったら、それが人気出て、経済は成り立つわけでしょう?

 私はひそかにこの展開を期待している。

 そんでもって、そうなった将来のために、いまから、めんどくさい手仕事の技を身につけようと画策をしているのだ。

 若者たちが
「手仕事いいじゃん」
「めんどくさいほうがいいじゃん」
「手作りっぽい不安定な仕上がりの方がいいじゃん」
 って言い出した時に
「できるよ」
「これどう?」
 って言えるばあちゃんになりたいわけよ。




家族問題1が終わったら、家族問題2 なのだ…
2017年05月06日 (土) | 編集 |
カナダ家族支援職資格取得日記⑭

 家族問題1を修了すると、家族問題2という科目にすすめます。
家族問題1で、家族に起こりうる問題を網羅、分析した後jは、家族問題2で、それに対するアプローチとその理論を学びます。

ここに、その内容を羅列すると…

The promotion perspective and the Ecological Framework
(最新の「促進理論」についての解説と、家族、個人のおかれた環境を含めた家族、個人理解の方法)

Power and Enpowerment
(支援の基本・エンパワーについてや、パワーウイズとパワーオーバーの違いなど)

Capacity
(回復力についての理解、力をつけ強みに注目するやり方の検討)

Individual and Social Change
(個人と社会の変化理論解説)

Family support Intereventions
(家族支援機関による介入の方法について。ファミリーライフエデュケーションの方法論など)

いやー、本当によく勉強したなー。

それが、私のフィルターを通ると

母親支援の現場では、
「ま、気楽にやればいいのよ」
になってしまうので、

私の講座に来たお母さんたちは、
「この人本当にちゃんと勉強したのかしら」
って思ってたかもなー。

でもさー、難しいこと言ったって仕方ないじゃんね。

この、英語で羅列した内容を語れと言うのなら、
それぞれの項目について、
いくらでも語れますけどね。

でも、みんな難しい話あんまり好きじゃないからねー。

それに、そもそも、私がファミリーライフエデュケーションを学んだ2000年初頭は、まだ、日本の社会のほうが、それを必要とするところまで至っていなかったから、語る場面はあんまりなかった。

私も、控えめな性格だし(ほんとかよ)。

それでも、感度のいい人たちが、私の所に訊きに来てくれたのが、とてもうれしかったです。
みなさん、あのときは本当にありがとう。





幸せについて
2017年04月24日 (月) | 編集 |
 誰かを幸せにしたいから、この仕事をしてる。

 っていうと、
 よく
「でも、幸せって人によっていろいろじゃない?」
 「幸せの定義って何?」
 って言われる。

 表面的には、
「そうですよね」
 って話を合わせるけど

 心の中では、
 無条件でムカッと来てる。

 なんでそう難しく考えるかなあ。

 幸せ
 
 なんてそもそも言葉でさえ表せない
 実体のないゆらゆらしたイメージ
 それでいいじゃん。

 それをなんか、あーだこーだゆってどうするよー

 って思ってる。

 いや思ってた。
 
 っていうのはさ、最近幸せを説明する方法を見つけたんだ。

 仕事からの帰り道
 よく見る風景
 出会うたび
 胸がキュンとする。

 ああこれが幸せだよなあ
 と思う。

 それは、

 夜の石神井公園
 区民野球場
 ナイター
 昔野球少年だった男達が、
 ナイトゲームに興じている様子

 どこにでもいる
 どこにでもある仕事を多分している
 普通の人たち
 
 お揃いのユニフォーム
 応援している妻達

 男達が
 おなかのそこから笑いながら
 仲間たちとプレーをしている
 
 ああいいなあ
 と思う、 

 私がイメージする幸せってこれだよ、これなんだよ。
 って思う。

 

 



 
男の性教育
2017年03月12日 (日) | 編集 |

 私たちが性を語ろうとするとき、なんとなくうしろめたいような、恥ずかしいような気分になるのは、「教育」のなせるワザです。小さい頃から、気づかないうちに「性は忌むべきもの」「汚らわしいもの」というイメージを、親や周囲の大人から肌で感じ取り、すっかり自分の中へ取り込んでしまった結果なのです。
 しかし、本来セックスは、愛を交歓し生命を創りだす崇高な行為。人間の美しい自然な営みです。
それなのに、性に関することに、大人があまりにも敏感に反応するため、こどもたちは性の歪んだイメージを受け継いでしまう、と、カナダの有名な性教育家・メグ・ヒックリングさんは指摘しています。だから、私たち世代は、性の古いイメージを覆し、次の世代に新しいイメージを伝える必要がある、と。
 そのためには、たとえば、
「ウンチ」「オシッコ」「オチンチン」
と連呼したがる乳幼児に、あまり目くじらを立てないでおくとか、
「赤ちゃんはどうやって生まれるの?」
 という小学生に、あっさり、はっきり答えるとか、大人側の新しい対応が求められるそうです。
 なかでも思春期の男の子には、同性の先輩である父親や身近な男性のアドバイスが不可欠です。
 初めて夢精した時、
「もうすぐ白いもんがチンチンから出るかもしれないけれど心配するな! お父さんもそうだった。男なら必ず通る道だ」
 とあらかじめ言われていたら、どんなに安心なことでしょう。
 繰り返す勃起を、
「元気な証拠! それでいいんだ!」
 と笑い飛ばしてもらえたら、また、自慰行為を、
「どんどんやれ! そんなもん溜めていたってしょうがない」
 と認めてもらえたら、思春期の男の子の人生は、どんなに明るく照らされることでしょう。
 こうして、性から罪悪感を取り除くことで、逆に、性犯罪抑止や性的虐待の早期発見が期待できるとも言われています。 
(浦幌町広報に掲載)
男の子育て本…
2017年01月29日 (日) | 編集 |
「男の子育て本」という出版ジャンルを知っていますか?
 育児休業取得者、専業主夫、シングルファーザーなど、実際に子育てを体験した男性達がその書き手で、すでに様々な本が世に出ています。ルーツは1975年に刊行された「主夫と生活」(マイク・マクレディ著、伊丹十三訳、学陽書房刊)。最近では、現役官僚が書いた「経産省山田課長補佐、ただ今育休中」(山田正人著、日本経済新聞社刊)が話題です。

 さて、これらの本は、育児に直面した男達の、おおむね共通した心理を私たちに教えてくれます。

 まず彼らは、たとえ自分から進んで育児に専念した人でさえ、一様にそのシンドさにとても驚き、
「世の専業主婦たちは、こんな思いで子育てをしていたのか!」
 と愕然とします。

 それでも気を持ち直し、追いかけてくる子どもの世話と雑用の嵐―それも食べこぼしの片付けやおしめの後始末などの汚れ仕事―に、正面から取り組み、しばらくしてそういう生活になんとか慣れてきたころ、今度は、社会からすっかり隔絶された自分に気づき、憂鬱な気分、いわゆる「育児の孤立感」に襲われるのです。

 このへんは、仕事をやめて育児に専念した女性の心理と驚くほどよく似ています。

 そしてその時期を乗り越えて、子育て生活に慣れるに従い、彼らは、妻が頻繁に遅く帰ることに文句を言ったり、子どもが妻より自分になついていることに悦に入ったり、保護者会に積極的に参加したり、などなど、限りなく「母化」していくのです(笑い)。

 一方、子育ての憂いなく、思う存分仕事に集中する妻のほうは、夫が持ちかける子育ての話を話半分に聞いていたり、無責任に子どもを甘やかして夫に文句を言われたり、「仕事が大変なのよ」と愚痴を言ったり、限りなく「父化」していきます(再び笑い)。

 面白いのは、最終的には、子育てを経験した男性達がみな、「子育ての楽しさ」にハマッてしまい、たとえ復職しても、元の仕事人間の自分に戻れなくなってしまうことです。

 たまには、こんな「男の子育て本」を読んで疑似体験してみるのも、楽しいかもしれませんよ。

(2006年 北海道浦幌町広報に連載したコラムの転載です)
男だって子育て! その① 男たちよ!
2017年01月07日 (土) | 編集 |

その① 男たちよ! 

 はじめまして、ファミリーライフエデュケーターの林真未です。今月号から拙いコラムにお付き合いいただくことになりました。
 どうぞよろしくお願いします。

 さて、最近は「父親の育児参加」が花盛りです。カナダでも「父親は地球で一番素敵な仕事!」と銘打って、大々的なキャンペーンが行われています。日本国内、もちろん道内も盛り上がっているようで、私も先日、ある町で父親向けの講座を依頼されました。

 私の講座は一方通行の講義ではなく、参加者が自由におしゃべりするスタイルなので、その日も、興味深い意見が次々飛び交いました。
 ある父親が、
「男が働いて女が家事育児でなにが悪い。最近、父親に育児しろと世間がうるさすぎる。こっちは肩身が狭くなるばかりだ」
 といえば、他の父親が、
「いやあ、うちは共働きだから料理は全面的にぼくがやってます。お互い働いてると助け合うのがあたりまえという感じで…」
 と応戦。
「やってもやっても、奥さんに、協力が足りないようにいわれて…」
 と若い父親が悩みを相談すれば、他の人が、
「そうなんだよ。奥さんにもわかってほしいところはある」
 と共感するという具合。

 私は三人の子の母親で、しかもファミリーライフエデュケーターなんて触れ込みですから、結局最後に「これからの時代は男性も育児参加すべき」とまとめそうですが、実はそうでもありません。
「子育ては100の家庭があれば100通りあっていい。シングル家庭も含めて様々な家庭がある。両親がいる場合でも、父親が全く家事・育児をしないところもあれば、協力し合ってやっていくところ、あるいは専業主夫がいたっていい」
 というのが私の意見。ただし、その状態を母親(または家族等)が心から「幸せ」と感じていること、と言う条件がつきます。

 だって、
「女(同性愛の場合は男ですが)1人幸せにできなくて、なにが男よ(失敗した人は次回頑張れ)!」
 …私は、男性に対して夢とロマンを持っているのです。

(2006年 北海道浦幌町広報に連載したコラムの転載です)