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日々の呟きから子育てコラムまで。イラストレーターとファミリ―ライフエデュケータ-のコンビ「さえる」のブログです。家族支援学についても書いてます。
封印を解く。解いていいんだね?
2019年03月17日 (日) | 編集 |
 今から約10年前、産休代替教員になった(正規になったのはその数年後)。
 産休代替だから研修もなく、そのまま教壇に立つ。
 初めての職場では、ベテラン教師が見本を見せてくれたりアドバイスをくれたりして、
いろいろ支援してくれたけれど、そんなことで素人がすぐ良い教師になれるわけはない。
 しかも私の場合、プロの家族支援者としての自負と、保護者として学校を見ていろいろ考えてきた長年の経験という邪魔なものがすでにある。
 ホントに、あの頃ご一緒した先生方にはどれだけご迷惑をかけただろうと思うけど、当時はそこまで気づかない。
 それどころか、自分の得意を活かして子どもを扱おうとしていた。

 子どもに任せる。
 家族を支援する。
 一人一人に寄り添う。

 そんなことばかりに目がいって、授業を丁寧に考えることを軽視していた。
 慣れない校務分掌も大量にあったし。

 経験を経るにつれて支援者と教師の方法が違うことが見えてきた。

 支援者は、当事者の少し下の立場にいて、彼らを背中から支える仕事だが
 教師は、子どもたちの前に立って、リーダーシップを発揮する仕事。

 支援者は、当事者の内面に寄り添う仕事だが、
 教師は、授業をするのが一番主たる仕事。

 私は、教師として精進するため、
 この業界の掟に盲目に従おうと思った。
 わけわからん無駄な仕事や規則や慣習も、ギャグだと思えば面白いだけよ。
 そもそも、私みたいな規格外が、自分の思い通りに動いたら、業界から抹殺されてしまうという切実な恐れもあったし笑。

 だから、学習規律の確立とか
 一斉授業の作法とか、従来通りの授業スタイルとか、他の先生のやることを、見よう見まねで頑張ってきたのに、

 ここ数年
 業界は、アクティブラーニング、主体的対話的で深い学びに大きく舵を切った。

 既に子どもに学ばせたいものを持っている学校教育で、外からではなく自分のうちなる欲求から生まれる「主体的な学び」をさせるって、どういうこと? 既に矛盾笑
 という根源的な違和感は拭えないままですが、

 まあ、小さな定義のアクティブラーニング(大きな定義のアクティブラーニングは、やっぱりうちなる欲求が起点だから学校教育と矛盾する)なら、もともとファミリーライフエデュケーションのスタイルで、昔とった杵柄っていうやつ。それなら空気を吸うみたいにできる。
 
 それじゃあ、じゃんじゃんやらせてもらいましょうか。
 って感じで、今、窮屈に折り畳んでた羽をじゃーんって伸ばした気分。

 一所懸命アクティブラーニングを封印して、従来スタイルを真似してた私ってなんだったんだろう。

 もちろん
 成人教育のファミリーライフエデュケーションと違って、教育(教室)は1対30、大人と子どもなど、条件が違うから、一部の学習規律など、従来型教育の必要なところは残して、私のファシリテーションスキルと合わせて、新しいスタイルを編み出していこうと思いますが、いいんだね? ホントに。封印を解いていいんだね?

 

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新春「家ついていっていいですか」スペシャルを見て思ったこと
2019年01月02日 (水) | 編集 |
 テレビ東京の「家ついていっていいですか」っていう番組が大好きで毎回見ている。

 まちなかで、終電を逃した人に声をかけ、「タクシー代を払うので家についていっていいですか」と声をかけ、オーケーしてくれた人の家にいって、その人の人生について聞く番組。
 声をかけられたときは、どこにでもいる普通の人に見えた人が、家についていっていろいろ話しを聞いてみると、それぞれ思いもよらなかった人生を抱えて生きている。毎回そのドラマに驚く。

 新年は3時間超のスペシャルだった。

 その中に登場した一人の人生が、
 私には、
 ファミリーライフエデュケーターの私には、
 やるせなくてたまらなかった。

 埼玉県にすむ、一人暮らしの60代の女性(とは思えないほど若々しい見た目だったけど)。

 もともとは普通のお母さん。
 自身の心臓の病をおして産んだ一粒種の男の子を大切に大切に育てていたそうだ。

 けれど、幼稚園で、息子の行動が遅いことを注意され「しっかり躾けてください」と言われて追いつめられ、そこから、小学校時代もずっと言葉の虐待を続けてしまった、と。

 世間に子どもがちゃんとしていないと指摘されると、自分がちゃんとしていないからと言われた気持ちがして、どうしても子どもにちゃんとしてと強要してしまう。
  愛しているから、怒ってしまっては後悔するの繰り返し。

 やがて息子が成長し、今度は彼が反抗的な行動を繰り返し、とうとう母親である自分が家を出るしかなくなった。
 それから一人暮らしなのだ、と。

 だれも悪くない。

 哀しい話だ。
 
 今までも何度も無力感を感じてきた。
 私のできることなんてほんの少しで、だから、例えば、砂浜で砂を掬っても掬っても指の間からこぼれる。
 ずっとそんな感覚を抱えて来た。
 それがまた襲って来た。

 ファミリーライフエデュケーションは直訳すると「家族生活教育」。
 だから日本語のイメージだと「正しい家族生活を教える」というイメージになってしまう。
 だけどちがう。
 ファミリーライフエデュケーションは「知る」という方法で家族の幸せを阻むバリアを取り除く試みだ。
 それは家族に向かうだけでなく、家族を囲むコミュニティにも向けられる。

 この人にもし

 一人目で苦労して産んだ子はつい大切に育てすぎてしまうこと
 子どもは手をかけたら手をかけるだけ手がかかるようになってしまうこと
 大切に育てすぎると、本人が集団に適応するときに苦労すること
 生来、あるいはそれまでの人生の結果で、同じ母親でも子育てが得意な人と苦手な人がいるということ
 母親だけが子育てをしなくてもいい、たくさんの人の手を借りて子育てしてもいいのだということ

 などを事前に教えてあげられていたら。

 幼稚園の先生は、いつも子どもを善く育てたいと考えている。
 だから、親にしっかりがんばってほしいと思ってしまう。
 けっして親を苦しめようなんて思っていない。

 だから、
 その何気ない言葉が、親を追いつめることもある。
 親は、正しい指摘よりもまず、寄り添う支援を必要としている。

 と事前に伝えてあげられていたら。

 もしかして
この悲劇を防げたのではないか。
なんて思ってしまった。

もちろん
現実はいろいろなことが絡み合って存在するから
そんな単純なことではないかもしれない。

 だけど
 問題は、なにか起きた後に元に戻すことはすごく大変だから、
 問題が起きる前に、事前に「知っておく」ことで
 もっと言えば、成人教育的な手法で「体感してわかっておく」ことで
 それを未然に防ぐ。

 それがファミリーライフエデュケーションの考え方。

 だから、
こういう例を目にすると、私の中の永遠に癒されない哀しみがうずく。
ファミリーライフエデュケーターとしてがんばれば、なんとかできるんじゃないかと思ってしまう。

 つくづくおせっかいだし、そもそも、傲慢だよなあ、私は。
 まだ、自分になにかできるんじゃないかって信じている。





 
「ティール組織」 を 読んでいるんだけど
2018年12月27日 (木) | 編集 |
ティール組織を読んでいるんだけど

のっけから既視感満載

たとえばこれ

「彼らはまるで、昔のテレビ・シリーズに出てきたような親しみやすい宇宙人のようだった。かなり長い年月にわたって人々の生活に溶け込み、超能力を備えているのだが、他の人々からはそのことを認知されていないのである。」


2003年から2008年まで北海道を中心に日本中の子育て支援の団体を訪ねていた頃、家族支援学を知らないまま家族支援学のセオリー通りの支援をしている人たちは、みんな、まさにこんな感じだった!

それからここ

「殻を打ち破って新しいことに挑戦しようとする者はたいてい抵抗にあうだろう。「あいつは理想主義者だ」あるいは「ばかだ」と呼ばれるのだ。」

私の挑戦なんて安全地帯でのささやかなものだけれど、
でもやっぱり
ほんとにあの頃
言っていることをわかってもらえることが少なくて
まあ今もなんだけど
苦笑いに何度出会った(今も出会う)ことか!

そして極め付け

ここ

「判断から解放された共有スペースを作り、相手の話にとことん耳を傾けることによって、他の人々が自分の声や真実を見つけられる手助けをする。もちろんそれはお互い様である。」

これって私がトークショップと名付けて実践していたしゃべり場のスタイルそのもの
あのころもいまも、ファシリテーターが声を出す機会が少なければ少ないほど成功っていうのはそう言うことなんだよな

まだ三分の一しか読んでいないけど
私たちは早かったよねーと自慢したい気持ちが抑えきれずに投稿w

通知表なんていらない!
2018年12月23日 (日) | 編集 |
ゾゾタウンの社長のインタビュー記事を読んだら、
あの会社には社員の「評価」がないという。

閃いた!

小学校の通知表っていらないんじゃね?

ある教師も言っていた。

「評価という仕事さえなければ、最高の仕事」

ほんとそう。

小学校は文書では表せない
日々の営みの中の
えもいわれぬ学びが溢れているところ

その豊かさに比べれば
通知表という紙が表現できることは僅か

それに毎学期末
多くの時間を割かれている。

公文書じゃないのに。

だいたい、自分の子の(学校的学習の)出来なんて
日々の学校生活の様子でおおよそわかるし

しかも
小学校時代の学習結果がその後も学歴にリンクするとは限らない

我が家を振り返っても

小二の時硬筆書写で学校代表になった長女は進学校に行ったが、最後の最後で大学進学せず。

校長室に呼ばれがちだった悪ガキの長男はスポーツ推薦で大学付属高に進学し、高校で死に物狂いの勉強をして有名大への内部進学を勝ち取った。

小学校時代を遊び倒して
「よい」がたった3つで全学年120人の下から3番目という通知表だった二男は中1の前半半年で小学校6年間算数をマスターし(本人談)、中堅高校から現役で中堅大学に合格した。

前にも書いたが、この成績最悪の末っ子は
小学校時代、
毎日は楽しすぎて1日が終わるのがつらくて、
同時に
明日はどんな面白いことが待っているのだろうと寝るのが楽しみ
という6年間を過ごしていたそうだ。


というわけで

「小学校の通知表っていらないんじゃないですか?」

と我が師匠、松崎運之助先生に尋ねたところ
先生がおっしゃった。

「いらないよ! 義務教育なんだから。小学校だけじゃなく、中学も高校もいらないでしょ。上位の学校が進学希望者の成績が必要な時だけ、学校に請求すればいい話」

おお。さすがスケールデカい。
重ねておっしゃるには、

「あとね、卒業証書もいらないの! あんな紙切れ一つでどんだけの人が苦しんできたか! 行っていなくてもらっていなくてつらい思いをしたり、不登校でさ、行ってないいのに形式卒業でもらってつらい思いしたりする人がいっぱいいるんだから。卒業したかどうかも、必要な時に証明書を出せばいいじゃない!」

そ、そこまでは思いつかなかった。
さすが師匠。

職場でちょっと周りに
「通知表いらないんじゃない?」
と口を滑らせた時は
「まあね、でもやっぱりいるでしょ」
というお返事ばかりだったけど
(私の考えは業界の常識からぶっ飛んでいることが多いので自分の意見を言わないよう努力しているけどうっかり口を滑らせた)
師匠は、私の発想を遥かに超えていた。

卒業証書に価値を置くから、不幸が生まれると考えたら、

卒業証書をもらってきた日に、筒を使ったスポスポ遊び(フタ部分を動かしてスポスポ音をさせる)をするために、卒業証明を床に放り投げて顧みなかった長男の所業は正しかったのか?!

私個人は
ノスタルジーとして
卒業証書、可愛いんだけどな。

夜間中学の卒業生にとっては
むしろ
なによりも貴重なのでは?


いろいろ考えて長くなってしまった。











無性に腹が立ってきた
2018年12月01日 (土) | 編集 |
電車で座っていたら

隣に知的障害と思われる若い男の子が座った

そのまた隣はお父さんと思われる中年男性

息子の隣に座っている私に
迷惑がかからないように

ピリピリと神経をとがらせているのが伝わってくる

小声で自由奔放な息子の立ち居振る舞いをコントロールしている

私は障害のある人のことは
よく知っているから
何が起こっても大丈夫なんですよ!

と伝えたい

そんなに気を使わないで
心配しないで

なんなら、なにかあった方が楽しいと思っているくらいなのに

でも
電車で隣合わせた人に突然話しかける
ことを私もできない

切ない気持ちでいっぱいになりながら

とくに何も感じていない表情で携帯をいじってる

そのうち無性に腹が立ってきた

なんで
障害のある子を世話する人とか
小さな子を抱える人とか

明らかに
そうでない人より普段から苦労している
人が

その上
周りの人たちに
なぜ
こんなにも気配りしなければいけないのか

降り際に見た親子の後ろ姿はよく似ていた
お父さんは髪が薄くなっていた

きっとこれから
あの髪が全て白くなっても
彼は息子の外出介助を続けなければならないだろう

沖縄で
小さい子を連れて旅したとき

離島に渡る船の案内人は
「ハイハイ、小さい人が先ねー」
と言って
私達親子を一番先に船に乗せた

今日の電車で出会ったことは
東京だから
起きたことなのだろうか?
人の手に渡ると、、、
2018年09月30日 (日) | 編集 |
キリストは自由な生の喜びを語っていたのに、パウロがそれをすり替えてストイックなキリスト教を作ったと
ニイルは言う。

アインシュタインの発見も本人の思わぬところで武器になったと聞いた

最初は十五の春を泣かせないために編み出された偏差値が、逆に十五の子達をしんどくさせた

教育業界もそういうことは多い

なぜか最初は素敵だったのに
人の手に渡ると
似て非なるものに変質する

とくに
大きなビジョンが
小さなディテールに
変質することが
多い気がする

ちと偉そうな書きっぷりw
共感的に とか くそくらえ
2018年09月23日 (日) | 編集 |
くそくらえ
って、ずいぶんな言葉ですよね。抽象的な意味で使ったけどw

さて
何を言いたいかと言うと、
支援の現場ではマニュアルというか掟というか

共感的に
傾聴
対等な立場で

とかいろいろあるわけですよ。

でもいつも「うさんくせー」と私は思っていました。

反対の立場になってみてください。
マニュアル通りに共感的な相づちを打って傾聴されたら
私は気持ち悪くてたまらない。

そもそもマニュアル的な対応をしている段階で
ぜんぜん対等じゃないでしょうよ。

対等って
文字通りの単純な言葉ではなく
立場を超えてなおかつ尊重しあうということであって
現象としては同じかもしれないけど
態度だけ対等だって意味がない。

だいじなのは誠意。

相手のしていること言っていることが
どうしても見過ごせないのに
共感して傾聴しているだけでは
むしろ誠意がないと思うのです。

高飛車な言い方ではなく
相手を尊重したコミュニケーションで
お互いの考えを伝えあう

あれ?
おやしえんについてかいていたつもりだったけど
これって
ごくごく当たり前の
人と人とのコミュニケーションにおけるたしなみだ

マニュアルはいらないってことか



日常生活支援サポートハウスの奇跡 林真未
2018年08月23日 (木) | 編集 |
 長い間ブログがたまにだったり滞っていたりしたのは、初めての著書を書くのに集中していたからでした。
 やっとできました。

名称未設定2

 現在、各方面に営業中。
 
 アマゾンでも売っています。
 
日常生活支援サポートハウスの奇跡

 まさに本日、この本に関するイベントをします。

名称未設定

 今日のイベントに来られなくても、本を読んでもらえると嬉しい。
 Kindleなら無料。
 買わなくても、地元の図書館にリクエストして自治体に買ってもらえると、無料で読めて、私的にも人の目に触れる場所に置いてもらえるのでありがたい。
 もちろん、ご購入いただけたら、それは一番嬉しい。

 この本の主人公は、すごいことをさらっとやっている。しかも、外に向かってアピールする暇も意思もないから、
この実践は、もし私が書かなかったら、だれにも知られずに埋もれていくだけ。
 でも、こんなにすごいことは、誰かが書き遺さなくてはいけない!
 その一心でまとめました。 
 同時に
 私が伝えたい「家族支援とはなにか。」をこの本に詰めました。

 何らかの形でお目通し願えたらありがたい…。
 




もうおまえは勉強ができなくてもスポーツができなくてもそんなことはどうでもいい
2017年12月08日 (金) | 編集 |
 高3の息子と雑談。

「おまえの学校でもいじめとかあったの?」
「あったよ、中2の時」

5年前か。

「それで、いじめがおきたときおまえどうしたの?」
「やめさせた。俺いじめだいっきらいだから」

「なんできらいなの?」
「だって、俺って勉強もスポーツもできないから、完璧いじめられるタイプじゃん。だからいじめられたらいやだなって思って。だからきらい」
「いじめられたことあるの」
「それがないんだよ。それですごく幸せだったから、いじめは、ないほうがいいなあと思って」
たしかにこいつは昔から、勉強もスポーツもできないのに人気だけはあった。

「それなのに、中2の時、俺よりスポーツもできてお金持ちのヤツがいじめられていたからさ、そいつがいじめられることはないよなあと思って」
「でも、どうやってやめさせたの?」
「いじめてるヤツを殴った」
「え!!! クラスメート殴るって大問題じゃん。学校で問題にならなかったの?」
「だって先生知らないもん。(先生がまだ教室に来ない)朝のうちの出来事だから」
「よくもまあ。。。」
「みんなうっすらそいつがいじめていること嫌だなって思ってたから、代表でやったんだよ。そしたらいじめなくなった」

すごいな、おまえ。
大人の知らないうちに一人でいじめ解決かよ。

「あ、俺それ以外人を殴るなんてしてないからね」
そりゃ、そうじゃないと困る。

「でも、俺が殴ったいじめっ子のヤツ、逆にそれ以来嫌われちゃって、クラスで話すヤツいなくなって、それからずっと俺とだけ話してた」
昨日の敵でも、あくまで弱者の味方かよ。



もういいや。おまえは勉強ができなくてもスポーツができなくても、そんなことはどうでもいい。

そんなレベルの話じゃない。

もっとでっかいスケールで、おまえはちゃんと生きてる。

大人の知らないところでいじめを解決して、それを5年間も誰にも言わずに(というか、聞かれなければ一生言わなかっただろう)のんきな顔してるんだからさ。しかもいつも弱者に寄り添って。

おまえのすごさにうちのめされたわ。







冒険遊び場が特別な場所である限り
2017年10月01日 (日) | 編集 |
「小学生のときプレーパーク(冒険遊び場)連れてかれるの、やだったー!」という息子の衝撃発言から、冒険遊び場大推進派だった私は、子供と、子供のための大人の活動について、ずっと考えていて、最近見えて来たのは、冒険遊び場が特別な場所である限り、子供にとっては環境ではないんだなあということ。
常設の冒険遊び場であっても、それが子供の意識のなかで自分の周りに普通にあるもの、普通の公園みたいな特別じゃない場所として認識されないと、環境になれないんじゃないかな。
世の中そのものというか、置かれている状況というか、暮らしそのものというか、その中で、子供だけで生きていくのが子供で、それが自然。ワイルドネーチャーという意味の自然ではなく、本性というような意味での。だからコンピュータ溢れる現在に、コンピュータゲームするのは自然。
そりゃ私(大人)は子供には火遊び木登りしてほしい。
けど一方で、子供を子供だけに任せてあげたい。


余談ですが、うちの息子の場合は、任せた結果道端で木の棒振り回して戦いごっこ、どんつきの道路上でカードゲームというワイルドな結果になりましたが、ご近所が鷹揚だったからよかったもののイマドキ顰蹙以外の何者でもない。
(だから少子化なんだよな)


子供のためのイベントってたくさんあるけど、ほっといてあげるのが、いちばん子供のためっていう気がする。

学校だけはさ、大手を振って子供にコミットできる感じがして、それで私は教師の仕事が好きなんだけど、
子供にコミットしたければ、学校は講師料払えないけど、教師じゃない人もボランティアで学校教育の中に入って思う存分やって、子供の学校以外の時間は一切手をつけず、「くまのプーさん」じゃないけど、子供に何もしない時間をあげるっていうのはどうかなあ。

そうすっと、英才教育できないから、
凄い選手とか出なくなっちゃうかなあ。